2018年11月18日「主の権威の下で生きる」マルコ11:27〜33

序−よく講義や報告の時に質問を求めているのに、意見を言う人がいます。質問と言っても、普通に尋ねる質問のほかに、共感の質問、守りや育てる質問、批判の質問があります。今日の箇所にも質問でない質問が登場します。それを通して、真実な信仰について教えてくださっています。

T−わなのための質問−27〜28
 今や、社会では質問力というものが取りざたされています。従来日本では、説明会や講義の後、質問の時間を設けても、あまり質問されませんでした。それでいて、終わった後であれこれ言う姿が多かったです。質問することで理解が増し、確かめができます。質問という国際社会では当たり前のことがようやく日本社会でも重要視されて来ました。学生たちは質問をするように指導され、質問力の本が多く出されて、会社での仕事においても質問力が活用されています。今日の箇所は、質問が中心です。
 イエス様がエルサレムに来て、宮の中を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、質問をしました。27〜28節。祭司長、律法学者、長老たちとは、ユダヤ社会において権威を持つ者たちで、イエス様の言動について怒り、イエス様を亡き者にしようとしていた人々です。普段は互いの利権のために争っていたのですが、自分たちの権威を揺るがすイエス様に対して、結託して来ました。悪者たちは、利己的ですが、利益が一致する時は簡単に連合するものです。
 この質問は、本当に何かを教えてほしいための質問ではなくイエス様を罠にかけるための質問です。真剣に聞こうとするならば、どこか静かな所に案内して、そこで聞こうとするでしょう。イエス様を罠にはめて苦境に追い込もうとする算段でした。神からの権威だとでも言えば、「冒涜だ、死刑にしろ」と群衆を扇動しようとしたのです。マタイ26:65〜66。
 彼らが質問で問題にしているのは、権威です。「何の権威によって、これらのことをするのか」という質問と「だれが、これらのことをする権威を授けたのか」という二つの質問をしています。「これらのこと」とは、いわゆる宮清めのことでしょう。宮で商売していた人々は、彼ら権威筋の許可を得て商売をしていました。イエス様の宮での言動によって、彼らは、自分たちの権威がコケにされたと非常に憤慨していたのです。
 ユダヤ社会の権力者たちは、自分たちの権威が最高だと思っていました。大変高慢な間違いでした。最終的な権威が神様にあることを認めていなかったのです。天地を造られた神様の権威を認めていない人は、世の権威を頼りに生きます。そういう人々は、自分より人気のある人、力のある人があらわれたら、嫉妬します。神様を頼ることがなければ、人々は、地位や能力、出身や身分、美や力を頼りにして、誇るものです。大祭司は身分を頼りにし、律法学者は知識を誇り、長老たちは血統を頼りにしました。皆さんは、何の権威を頼り、誇りにしているのですか。ガラテヤ6:14,ピリピ3:3。
 当時のユダヤ社会では、彼らが誰かに質問をしたら、その人は恐れて震えたでしょう。そんな彼らが束になって質問して来るのです。ところが、イエス様は恐れません。神様を頼りに生きている人は、世の権威を恐れません。私たちが恐れるべきお方は、天地の造り主だけです。

U−質問を通して教えてくださる−29〜31
 イエス様は、彼らが本当に知りたいから質問しているのではないことを分かっておられました。そこで、彼らに逆に質問されました。29〜30節。彼らの質問に合わせて、権威の問題をもって質問されました。イエス様は、どうして質問されたのでしょう。一見罠から抜け出すためのように見えます。しかし、そうではありません。バプテスマのヨハネの権威について質問されたのですが、ヨハネの権威は、神様から与えられた預言者の働きなのか、自分勝手にしていたのかという質問です。実はイエス様は、この質問をすることで彼らの質問に答えておられたのです。
 彼らは集まって相談をしました。どんなことを話し合ったのか見てみましょう。31〜32節。ヨハネの権威が神様から来たと答えれば、なぜ彼を信じなかったかと言われてしまう。しかし、人からと答えれば、ヨハネを預言者だと信じていた群衆が怒るからというのです。ヨハネに対しても、彼らは、同じように妬んで、その権威を認めませんでした。しかし、ヨハネの権威を神様から来たと正直に受け止めれば、どうなるでしょうか。ヨハネが示していたのは、イエス様が来るべき救い主であるということでした。ですから、ヨハネの権威を認めるならば、イエス様を信じざるを得なくなります。
 彼らは、正直になることを回避しました。どうしたら、正直に答えることをしないで、窮地を抜け出すことができるだろうかと考えました。結局、自分の肉のプライド、権威を守るために、彼らは「分かりません」と答えました。32節。本当に知らないのではなく、逃げを打ったということでした。残念です。彼らは、悔い改めて、神様の御前に立ち返る回復の道を自ら閉ざしてしまいました。
 イエス様の質問は、回復への希望の呼びかけです。もし、彼らが、正直にヨハネの預言者としての権威は神様からですと答えるならば、イエス様を信じる道を進むことになります。私たちが神様の質問に正直に答えて行くなら、神様との関係が回復します。言わば、信仰生活は、神様の質問に答えて行く過程だということができます。聖書の中から例をあげましょう。復活されたイエス様がペテロに対して3度「わたしを愛するか」と問われたのは、イエス様を3度否んだペテロへの回復のためでした。ヨハネ21:17。神様の質問に真実に答えて行けば、私たちの人生は変化して行きます。それが、信仰生活です。
 イエス様は、様々なことについて教えられるだけでなく、その時多くの質問をされました。たとえば、隣人について例え話をされた時、「誰が強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」という質問をされました。ルカ10:36〜37。その質問に答えてこそ、自分が隣人になって仕える人生になって行くことに繋がって行きます。
 権威に笠に着ていた祭司長、律法学者、長老たち、イエス様の質問は、そんな彼らが真実に神様の御前に立ち返るチャンスでした。質問に答えて、真実の信仰を回復する機会でした。しかし、彼らは、「分かりません」と言って回復の機会を逸してしまいました。本当に分からないなら、教えてくださいます。私たちの内にも、真実が何なのかを知っていながら、その真実を正しく言わない偽りの心がありませんか。

V−主の質問に答えて行く人生−32
 私たちは、神様にイエス様に質問を多くするでしょう。その質問の類型は、本当に分からなくて知りたくて尋ねる質問ばかりでなく、自分の思いを認めてほしい質問、文句を言う質問、御言葉の勧めを拒否したい質問などがあるでしょう。どうしてですか、なぜですかといっぱい質問をしています。しかし、御言葉や祈りを通して、私たちも神様から質問を受けています。そのような神様からの質問に対して応答しているでしょうか。それこそ、ここに居並ぶユダヤ社会の権威者たちのように、分かりませんと言って拒んでしまう姿が、私たちの姿にもなることもあるでしょう。不満や文句の質問はいっぱいしても、主の質問に答えようとしているのでしょうか。
 すでに学んだ「人々は、わたしをだれだと言っていますか」という質問がありました。マルコ8:27〜29。弟子たちは、人々が色々言っているのを答えていると、「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と弟子たち自身に質問されました。弟子たちは驚いたでしょうが、「あなたは、キリストです」と答えました。この質問を私たちにもされているのです。「はい、私の救い主です」と答えているでしょうか。私たちは、人のことや社会のことは、簡単に躊躇無く答えることができるのに、「あなたはどうですか」と質問されると、どうでしょう。
 知っているのに、「分かりません」と答えた彼らに対して、イエス様は、「わたしも話すまい」と言われました。33節。私たちが神様からの質問に答えないのであれば、神様も私たちの質問に答えてくださらないのかもしれません。私たちのうちに、私がいっぱい質問していても答えてくださらない、色々祈っているのに聞いてくださらないという思いがあるでしょう。その理由は、私たちが神様の質問に御言葉の質問に答えていないからなのではないでしょうか。
 私たちが投げかける質問に神様が答えられないのでしょうか。私たちが神様の質問に答えるなら、それが答えになることもあるでしょう。自分が何かを求めているとしましょう。神様があなたは何を求めているのか、どうしてそれを願うのかという質問を私の心にされる時、それに答えていくなら、そこに神様からの応答があるというようなことです。
 イエス様が私たちの権威者であり、私たちの人生を治められる方です。コロサイ2:9〜10。神様が私たちへの質問者です。私たちは、主の質問に日々応える必要があります。私たちは、人生の様々な問題を通して与えられる神様からの質問に対して、正直に真実に応答して行くならば、解けなかった人生の問題が少しずつ解けて行くでしょう。主の権威の下で生きて、この祝福を享受できますように祈ります。




マルコ11:27 彼らはまたエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、イエスのところにやって来た。
11:28 そして、イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」
11:29 そこでイエスは彼らに言われた。「一言尋ねますから、それに答えなさい。そうすれば、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているかを、話しましょう。
11:30 ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」
11:31 すると、彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。
11:32 だからといって、人から、と言ってよいだろうか。」──彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。
11:33 そこで彼らは、イエスに答えて、「わかりません」と言った。そこでイエスは彼らに、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」と言われた。



ピリピ3:3 神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。

ヨハネ21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

マルコ8:27 それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」
8:28 彼らは答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。」
8:29 するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」

コロサイ2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。


戻る