2018年11月25日「見捨てた石が礎の石に」マルコ12:1〜12

序−いよいよイエス様が十字架にかけられる時が近づいて来ました。そこで、イエス様の十字架とは何か、どうして神の御子が十字架にかからなければならなかったのか、なぜ、神様は愛する息子を十字架に渡されたのか、神様はどんなお方なのか、それを比喩を通して教えておられます。

T−ぶどう園のたとえ、所有者と小作人−1〜11
 イエス様は、こんなたとえ話をはじめられました。1節。ある地主が、ぶどう園を造って、垣を巡らし、ぶどうを絞る場所を作って、見張り所を建てた上で、そのぶどう園を小作人たちに貸したというのです。この主人は、当時よくあった不在地主のことで、そこに住んでいない地主が小作料を取って小作農に耕作を任せることをしていたようです。ぶどう園の主人がすべて準備してくれたので、どれほど小作人は楽できたでしょうか。感謝をこそすれ、文句の言うべき余地はありません。
 実りの季節になったので、主人は収穫の分け前を受け取りにしもべを送りました。決して無理なことはしていません。契約に基づく正当な要求でした。ところが、小作人たちは、主人のしもべを袋だたきにして追い返しました。2〜3節。主人は繰り返ししもべを送っても、小作人たちは、もっとひどい扱いをして送り返し、殺したりしました。4〜5節。彼らは、主人に対して感謝して収穫の取り分を渡すべきところなのに、それを拒んで、ますますしもべたちに対してひどい扱いをしたのに、それでも主人は、忍耐して次々としもべを遣わしてくださいました。どれほど寛大な主人でしょうか。
 そんな主人は、最後には、最愛の息子ならば尊重してちゃんと対応してくれるだろうと、息子を送るのです。6〜7節。何ということでしょう。それほどに寛大な主人でした。小作人たちの悔い改めを期待したのです。しかし、逆でした。当時、所有者のいない土地を耕作したら、その人のものになるという法律があったそうです。小作人たちは、跡取り息子を殺して財産を自分たちのものにしようと、主人の息子を殺してしまいました。8節。ぶどう園の主人はどうしたのでしょう。ついに主人はやって来て、小作人たちを滅ぼして、ぶどう園を他の人たちに与えてしまいました。
 このたとえの意味は何でしょう。何をさしているのでしょう。ぶどう園はイスラエルの民をさしています。主人は神様で、農夫たちはユダヤの指導者たちを意味していました。袋叩きにされ、殺されたしもべは神様が繰り返し送られた預言者のことであり、最後に送った息子とはイエス様のことです。イエス様が十字架にかけて殺されることを意味していました。そして、他の人たちとは、異邦人のことです。やがてAD70年には、ローマ帝国のテトス将軍によってイスラエルは完全に滅ぼされることになります。そして、信仰のある異邦人に引き継がれることになります。
 このたとえは、イエス様がどうして十字架にかかることになったかをよく示してくれています。神様を離れて自分勝手に歩んで、罪に滅んで行く人間を哀れんでくださった神様が、ついに人類を救うために、御子イエス・キリストを世に遣わして十字架に渡されたということです。

U−十字架、神の忍耐と愛のゆえに−
 この例えは、神様がどういうお方なのか、どんな存在なのかを示してくれています。まず、神様が私たちにどれほど必要なものを供給してくださるお方なのかを示しています。神様は、私たちを祝福し、必要なものを与えてくださっておられます。ぶどう園の主人は、何もかも完璧に準備して、小作人たちに貸しました。神様は私たちの必要をご存知です。それにもかかわらず、私たちは不満ばかり持って、神様に要求していないでしょうか。神様が必要を備えてくださるという信仰に立てば、足ることを知り、あらゆる境遇に対処できるようになります。ピリピ4:11〜12。
 次に、神様が私たちをどのように信頼してくださっておられるのかが示されています。この例えで、主人は小作人たちを信頼してすべてを任せて旅に出たと言います。神様は、世を創造された時人間に自然の管理を任せてくださいました。創世記1:26。人から信頼して何かを任されるということは、大きな励ましや喜びを与えられます。イエス様を3度否定して失意と痛みを抱えてガリラヤの漁師に戻っていたペテロに対して、イエス様は「それでもわたしはあなたを愛している。わたしの羊を飼いなさい」と言われました。
 そして、この例えは、神様が私たちに対してどれほど忍耐深くあられるかを示しています。主人は、小作人たちにしもべを何度も遣わしました。どれほど主人は小作人たちに対して忍耐したことでしょう。一度しもべを袋叩きにして帰しただけでも、主人の怒りを買うでしょう。主人はそれを忍耐し、何度もしもべを送りました。ついには、自分の跡取り息子まで送りました。悪い小作人たちに対して、どれほど主人は寛容だったのでしょうか。彼らの悪を知りながら、チャンスを与えようとした主人の配慮です。主は私たちの罪を知っておられますが、忍耐してくださり、悔い改めの機会を与えられる愛の神様です。
 さらに、神様の愛を拒む者は、裁きに至るということを示しています。小作人たちは、自分に施された神様の愛を悪用してしまいました。神様は、罪人に対して何時までも寛容なのではなく、神様の愛に最後まで背を向けているなら、チャンスがなくなり、滅びに至ってしまうのです。私たちは、神の愛を知らないうちは、小作人のように神を裏切るかもしれませんが、神の愛を知るなら、その恵みの中で憩うことができます。

V−主人になろうとした小作人−10〜12
 さて、ユダヤの指導者たちは、このたとえについて、どう感じたでしょうか。たとえの意味が分かったのでしょうか。12節。気付いたのです。でも、気付いたのですが、イエス様を殺そうとしました。分かったのに、悔い改めのチャンスを失ってしまいました。彼らは、不従順となり、恵みに感謝するより、恩知らずとなりました。救い主を拒みました。
 イエス様は、このことを旧約聖書の予言の成就であると教えてくださいました。詩篇118:22〜23。これもまた例えです。神殿を建てる時建築家が捨てた石が、隅のかしら石、礎の石になったというのです。10〜11節。どういう意味なのでしょうか。神殿を建てる時に、石工たちが土台のための石を求めましたが、使い物にならないと採石場に捨てられていたものの中にぴったりのものを見つけたというのです。家を建てる者たちの捨てた石とは誰ですか。イエス様のことです。家を建てる者たちとは誰ですか。ユダヤの指導者たちです。イエス様は、彼らによって徹底的に捨てられました。彼らによって憎まれ、拒否され、告訴されて十字架に付けられて殺されました。
 礎の石は、他の訳では隅のかしら石となっています。家を建てる時の大事な土台の石です。このような話は、聖書の中に多くあります。例えば、ヨセフは、兄弟たちに妬まれ、エジプトの奴隷に売られてしまいましたが、やがてエジプトの宰相となり、一族を救うことになります。まさに、見捨てられた石が礎の石になったのです。私たちも、そのように用いられたいですね。自分は捨てられた石のようですか。それなら、主によって削られて整えられて、礎の石にされます。
 それにしても、なぜこのたとえの小作人、農民たちは、それだけすべて整えてもらって、信頼されて任されたのに、悪い人になってしまったのでしょうか。どうして恩知らずの裏切り者になったのでしょうか。主人から預けられたぶどう園を管理してみると、欲が生まれました。ヤコブ1:14〜15。自分たちがぶどう園の所有者、主人になりたいと思いました。跡取り息子が死ねば、自分たちが主人になれると錯覚したのです。
 このことは、私たちに何を言っているのでしょうか。神様が私たちの人生の主人であることを教えています。このことを私たちが忘れた時、悪い小作人となりとなります。神様が私の家庭や子ども、職場や学校の所有者、主人です。人間の悲劇は、神様を所有者から追い出し、自分が主人となろうとすることです。あなたが銀行の支店長だとして、支店のお金を本店に送らず自分の自由に使ったとしたら、何と言われますか。そんな人は横領、強盗ですね。
 神様は、私たちの人生の主人であり、命の所有者です。私たちが主人である神に従って生きることをしないで、自分のためにだけ生きているとしたら、それは強盗です。ぶどう園の農夫たちは、自分がぶどう園の主人になったと錯覚したのです。私たちが自分の所有者になれば、自分勝手に生きるようになります。イエス様の例え話を引用しましょう。ルカ12:18〜20。ある金持ちの畑が豊作となり、大きな倉を建てて、何年分も蓄えることができ、さあ安心して、食べて飲んで、楽しめと心に言ったというのです。その時、神様は、お前の命が今晩取られたら、その準備した物は誰の物になるのかと言われたのです。
 神を信じる人は、私、私と言うのを減らさなければなりません。私たちの主語は、神様です。神を自分の主人として迎えて仕えるなら、私たちは幸いな人生を過ごすことができます。「主人が最後にその息子を遣わした」ことは、私たちに感激を与えます。もし、神様が最愛の息子を送ってくださらなければ、私たちに機会はありません。イエス様を送ってくださった神様に感謝し、人生の主人として受け入れ、従います。ヨブ41:10〜11。



マルコ12:1 それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
12:2 季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。
12:3 ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。
12:4 そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はずかしめた。
12:5 また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした。
12:6 その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう』と言って、最後にその息子を遣わした。
12:7 すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』
12:8 そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。
12:9 ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。
12:10 あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。
12:11 これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』」
12:12 彼らは、このたとえ話が、自分たちをさして語られたことに気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、やはり群衆を恐れた。それで、イエスを残して、立ち去った。



ピリピ4:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。
4:12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

詩篇118:22 家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。
118:23 これは【主】のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。

ヤコブ1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。

ヨブ41:10 これを起こすほどの狂った者はいない。だから、だれがいったい、わたしの前に立つことができよう。
41:11 だれがわたしにささげたのか、わたしが報いなければならないほどに。天の下にあるものはみな、わたしのものだ。


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