2018年12月2日「誰の肖像、誰の銘ですか」マルコ12:13〜17

序−自分のアイデンティティーは何でしょうか。私たちは自分自身が何者かを考えながら生きているでしょうか。神の民とされながら、福音から離れていたユダヤの民を見るたびに、私たちは救われた者としてどう生きるのか真剣に考えさせられます。例の質問の罠を通して学びます。

T−言葉の罠、言葉の擬装−13〜15
 ユダヤ人の指導者たちは、自分たちの権威や利権が危うくされるという危機感から、イエス様を殺そうとしました。何度もイエス様を死刑にする口実を見つけようと質問をして来ました。そのため、今回は、「パリサイ人とヘロデ党の者」をイエス様の所に送って来ました。13節。パリサイ人とは、最も律法に厳格な宗派で、イスラエルに与えられた律法を徹底的に守るために研究し努力していた人々です。一方ヘロデ党の者とは、政治的な派閥で、ヘロデ王家とローマ帝国の立場を擁護していた人々です。
 彼らは、ことあるごとに敵対していた人々です。言わば、正反対の立場の人々なのに、どうして一緒に来たのでしょうか。イエス様を罠にかけるためでした。彼らの立場に関わる質問を用意したからです。人は悪をなす時、敵対していた者同士が一緒に事を行おうとするものです。彼らは、擬装して質問して来ます。14節。「カイザルに税金を納めることは律法にかなっているかいないか」という質問は、悪意のある質問でした。カイザルに税金を納めるべきだと答えれば、パリサイ派が騒ぎ立て、税金に不満のある民衆を扇動するでしょう。カイザルに税金を納めるなと主張すれば、ヘロデ党が反政府主義者だと騒ぎ、捕らえさせるでしょう。
 人の言葉には、罠があります。論争や噂話に引き込もうとします。つい愚かなことを言ってしまったり、憤慨して争ってみたりすることがないでしょうか。御言葉の知恵をもって聞き、イエス様に尋ねながら対処したいものです。丁寧な賞賛にさえ罠があります。彼らは、わざわざ質問の前に、イエス様について「真実な方で、だれをもはばからない、人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられる方だ」と言っています。媚びへつらって、イエス様を油断させようとしたのでしょう。私たちの周りにもそんな媚びへつらいの言葉がありませんか。偽りのお世辞の言葉に気持ちよくして、心惑わされてしまうのです。
 彼らは真実を語っています。彼らはイエス様を正しく理解していたのです。しかし、生まれ変わることはありませんでした。イエス様を知っていながら、イエス様と人格的に出会っていなかったのです。誰でも、イエス様を知ることができます。しかし、人格的に出会わなければ、真実に信仰に生きることはできません。ご利益信仰のままなら、思い通りならなければ、イエス様から離れてしまいます。イエス様に人格的に会わなければ、イエス様を知っていても、魂の問題に助けにならないのです。擬装は、サタンの常套手段です。イエス様も、「なぜわたしをためすのか」と言われました。マタイ22:18。人格的にイエス様に会わなければ、サタンの試みに会い、不安定な信仰生活を送らざるを得なくなります。

U−カイザルのものはカイザルに−16〜17
 彼らの質問は、どちらに答えてもイエス様を窮地に陥れるものでした。何と答えたらいいのでしょうか。私たちは、この話を知っていますから、緊迫感や感動がないかもしれませんが、その時のその場の緊張感を想像してみてください。答えによっては、訴えられ、投獄や刑罰があるのです。私たちは、会議や話し合いで不利な状況になった時、どうでしたか。民衆や弟子たちが緊張してそのやりとりを見ていた時、イエス様は、何と答えられたのでしょうか。16〜17節。
 イエス様は、デナリ銀貨を持って来させると、「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか」と質問されました。なぜ質問されているか分からない彼らは、「カイザルのです」と答えました。ここで勝負有りです。そのデナリ銀貨には、当時の皇帝、第2代皇帝ティベリウスの像と名前が刻んでありました。そして、すかさずイエス様は「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」と言われました。18節。彼らは、反論やねじ込むこともできず、ただイエス様の言うことに驚嘆するしかありませんでした。
 古代社会において、貨幣は権力者の象徴でした。新たな地を征服し統治する時、王様の像を刻んだコインを鋳造させました。ですから、コイン、貨幣とは、貨幣に刻まれた王がその地の支配者であることを示すものでした。税金を払えとは言わずに、カイザルに借りていることを返せと言っています。では、「カイザルのものはカイザルに返しなさい」とは、私たちにとってどういう意味を与えるのでしょうか。王の肖像と名前の入ったコインが流通している地域がその王の所有だということをあらわしていたのですから、私たちが使っているものの中で、世の姿と世の名前が刻まれているものはすべて世のものと認めて、世に返しなさいということです。つまり、その地の市民としての義務を果たしなさいということです。
 確かに聖書は、上に立つ権威に従うべきだと教えています。神がそれを許しているからというのです。ローマ13:1。当時は、パックスロマーナと言われるローマ帝国による統治によって平和が保たれていました。帝国中どこにでも行くことができ、生活することができました。その環境であってこそ福音が地中海世界に広まって行きました。私たちは、国家という垣根の中で国家の保護の中で生きています。その地に住んでいる限り、納税、教育、労働などの基本的な義務を果たす責任があります。とりわけクリスチャンは、着実に市民としての義務を果たすことで、周りの人々に良い影響を及ぼして行くのです。
 聖書は、世の支配者は、「あなたに益を与えるための、神のしもべだ」とさえ教えています。良心のためにも、従うべきであり、税を納めるべきだと教えています。ローマ3:4〜6。為政者や公務員の人々に対して、このような思いを持って敬うことも大事だということです。当時、パックスロマーナの中で平和を享受していたにもかかわらず、ローマ帝国に税金を納めるのを嫌い、ユダヤ人は幾度も暴動を起こしました。ついにはAD70年の暴動によって、ユダヤ人はその地から追放されることになります。

V−神のものは神に−17
 イエス様は、「カイザルのものはカイザルに返しなさい」とだけ言われたのではなく、「そして神のものは神に返しなさい」と付け加えました。17節。神のものとは、何でしょう。カイザルのものと神のものがあって、区別されているということではありません。すべては神によって造られたものです。世界のすべては神のものです。詩篇24:1。神様に造られて、命を与えられた私たちも神のものです。イザヤ43:1。私たちの家庭も、私たちの仕事も、私たちの力や賜物も神のものです。
 ですから、私たちは、世のものを世に返す思いで、世で働き、学び、世の義務を果たすと共に、神様へ仕え、神様の栄光をあらわす思いで世で仕え、働き、生きて行く存在なのです。世のことをするのに仕方なくすれば、不満があり、喜びがありませんが、むしろ積極的に神の栄光のためにするのだとすれば、心に自由と喜びがあります。そのようにする者に、神様は恵みと祝福を注いでくださいますから、信仰による学びや働き、証しの生活が祝福されます。
 デナリ銀貨に皇帝の肖像と銘が刻まれていたのなら、神の肖像と銘が刻まれているものがあるのでしょうか。神様の肖像と銘が刻まれている方がいました。ティベリウス皇帝のコインには、「カイザルティベリウス神聖アウグストの息子」という銘が刻まれていましが、彼らの前に立たれておられるイエス様が、神の御子であり、このお方に神の肖像が刻まれていたのです。コロサイ1:15。ところが、ユダヤ人は、イエス様を真実なお方とお世辞を言いながら、イエス様が神の肖像であり、神の御子であることを見ることができませんでした。
 やがてイエス様は、ユダヤの権威者たちばかりでなく、ローマ兵や民衆からも嘲笑と屈辱を受け、人々から見捨てられ、十字架につけられてしまいます。「十字架から降りてみろ。そうしたら信じるから」と言われても、十字架から降りることはされませんでした。なぜなら、イエス様は十字架に死なれることで私たちの罪を赦し、滅びから救い、私たちの内に神の肖像、「神のかたち」を回復させてくださいました。コロサイ3:10。人は創造された時、神様のかたちに似せて創造されました。創世記1:26。イエス様の十字架は、私たちにとって、その創造の時の神のかたちを回復させてくださるための犠牲でした。
 デナリ銀貨には、ティベリウス皇帝の肖像と銘が刻まれていたのですが、イエス様を信じて救われた者には、神の肖像と銘が刻まれています。神のものは神に返しなさいと言われているのですから、聖徒たちは、自分を神様に返しているか、つまりささげているか点検してみなければなりません。擬装の信仰は、自分の思いを神様の御心に沿わせるなどには関心がありません。彼らの関心は、自分の思いと願い通りにどれだけ神様がしてくれるかにあるからです。神の肖像が回復された者は、神の御心に自分の関心を集中させる必要があります。「あなたには、誰の肖像がありますか。誰の銘がありますか」と問いに何と答えますか。ガラテヤ6:17。



マルコ12:13 さて、彼らは、イエスに何か言わせて、わなに陥れようとして、パリサイ人とヘロデ党の者数人をイエスのところへ送った。
12:14 彼らはイエスのところに来て、言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか。」
12:15 イエスは彼らの擬装を見抜いて言われた。「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」
12:16 彼らは持って来た。そこでイエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです」と言った。
12:17 するとイエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスに驚嘆した。



ローマ13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
13:2 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。

ローマ3:4 それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。
13:5 ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。
13:6 同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。

詩篇24:1 地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは【主】のものである。

イザヤ43:1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、【主】はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、【主】はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

ヨハネ1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

コロサイ3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。

創世記1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」

ガラテヤ6:17 これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。

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