2018年12月9日「生きている者の神」マルコ12:18〜27

序−人は誤解し間違うものです。少なからぬ人々が、信仰について間違ったまま信じています。聖書を勝手に誤解しています。信仰の本質について悩みもせずに思い違いをしたままでいる人々がいます。聖書について、信仰について思い違いをしていた人々がイエス様に質問しに来ました。イエス様が質問に答えることで、間違いを教えてくださいます。

T−自分の合理的な考えで信仰する人々−18〜23
 先に税金問題をもってパリサイ人とヘロデ党の人が質問に来ましたが、今度は、サドカイ人という人々が神学的問題をイエス様に質問しに来ました。18節。パリサイ人とかサドカイ人と言っても、人種とか民族の名前ではなく、ユダヤ人の宗派の名前です。パリサイ派は、律法とともに先祖の言い伝えを守ろうとしており、御使いも、復活も、霊も信じていた人々ですが、サドカイ派は、モーセ五書だけを尊重し、御使いも、復活も、霊も信じていませんでした。使徒23:8。合理主義者で、祭司階級を独占し、政治と権力に執着していた人々です。
 サドカイ人が復活という神学的問題を質問して来ましたが、質問というより、イエス様を陥れるための材料でした。19〜23節。これは、亡くなった兄の未亡人を弟が娶るという、いわゆるレビラト婚と呼ばれた昔の制度です。申命記25:5〜6。昔割り当て地を相続する時、子がなければ他人のものになることもありました。兄が息子を残さずに死んだ場合、弟が兄嫁を娶って、息子をもうけて相続させる習慣がありました。ルツ記に出てくる買戻しの権利、近い親戚が相続地とともに未亡人のルツも娶らなければならない話も、これに関連することです。ルツ記4:5。
 もちろん、次々と7人の兄弟と再婚して7人が死んだというサドカイ人の話は、極端な作り話でしょう。その7人の死んだ兄弟が復活したら、その女は誰の妻になるのか、一人の女を巡って7人の兄弟で争うのかと復活を信じていないサドカイ人は質問して来たのです。サドカイ人は、復活をこの世の延長と考えました。確かに、サドカイ人の論理の通りであれば、混乱が起きるでしょう。夫と妻が離婚と再婚を繰り返した場合、復活後どのような家族構成になるのかということになります。家族関係で酷い加害者と恨んでいた被害者は、復活後どんな関係になるのかということになります。若くして死んだ父と年老いて死んだ息子は、復活後、どのようになるのかということになります。彼らの論理によれば、だから復活はないということになるのでしょうか。現代のクリスチャンの中にも、そのように思っている人もいるかもしれません。

U−−23〜25
 イエス様の答えをみてみましょう。24節。「思い違い」という原語の意味は、「道を失う」とか「迷う」という意味です。彼らは、聖書をよく読んでいました。とりわけ、モーセ五書と呼ばれる創世記から申命記までは覚えるほど読んでいたのに、聖書を知らない人のように反応していたのです。それは、「神の力も知らないから」でした。聖書は、創世記のはじめから、神様がすべてのものを創造された全能の神である事実から出発しており、広大な自然から人間までお造りになられました。出エジプトでは様々な奇跡を経験しました。それなのに、復活させてくださる神の力を信じないのです。
 復活だけでなく、真の信仰がなかったのです。真の信仰を持つためには、聖書も神の力も知ることが必要です。聖徒が信じる神は、聖書で証言されている神です。仮に自分の合理的な考えを聖書よりも権威を持つものとするならば、サドカイ人のような合理的な考えに合わないところは、聖書から省いてしまうでしょう。現代の自由主義神学の信仰も、そのようなものです。これが、彼らの誤解の根本的な原因でした。
 サドカイ人の質問は、復活後もこの世での婚姻関係が続くと誤解したからです。イエス様の答えは何ですか。25節。サドカイ人は、復活後も地上の人生と同じだと勘違いをしていました。しかし、人は復活後、娶ることも、嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようになるとイエス様は教えてくださいました。御国では、みな神様を父とした神の家族となります。天国では、苦痛や悲しみ、飢えや渇きがありません。神の子羊の血によって罪赦された、まったく新しくされた者が入ります。
 心配する必要はありません。神様によって天国にふさわしい姿に変えられます。Tコリント15:42〜44。そこでは、地上での生活とは違って、まったく新しくされると聖書は教えています。Uコリント5:17。イエス様の十字架の犠牲を自分の救いのためと信じなければなりません。イエス様を救い主として信じて、十字架の血潮によって罪赦された者が天国に入るからです。
 娶ることも嫁ぐこともないならなら天国は詰まらないのではないか、飢えや渇き、苦しみや悲しみもないなら退屈ではないか、とサドカイ人は考えたのでしょうか。ナルニヤ国物語で有名なCSルイスは、そのような質問を受けて、次のように答えました。「退屈や飽きは、堕落した人間にだけ該当するものです。天国は日々新たに出会う最初の愛の宴です。あなたは初恋の経験がありますか。 初めて愛に陥ったときどうでした。いくら見ても飽きないし、愛する人と一緒にいるだけで幸せでしょう。天国はまさにそのようなところです。愛するイエス様に会って、永遠に一緒に過ごせる感激を抑えることができない、いつも新鮮なところです。」
サドカイ人は、律法については博識な人々でしたが、それよりも自分の合理的な考えを信頼していました。単純な言い方をすれば、自分中心だったのです。彼らは自分たちの理性を信頼し、御言葉を通して示されている神様の御心を知ろうとせず、敬わず、従うことがありませんでした。現代にも、このような姿勢を持つ人々が大勢いるのではないでしょうか。人は、自分の理性と常識に従って物事を判断し、信仰を理解しようとします。自分の理性を絶対的に信頼するからです。でも、自分の理性はそんなに絶対的なものですか。哲学でも、人の理性は、自分たちにあらわれる現象だけで、霊魂や神の存在など形而上学的認識は不可能だと言っています。聖書を知っていても、聖書よりも自分の欲や主張によって聖書を受け止めるなら、サドカイ人と同じになります。
 本当に理性をもって合理的に考えようとするなら、神からの賜物である聖書を理解しようと努力し、自分が神の被造物であることを自覚して、救われるべき存在であることを知るべきでしょう。本当に理性を持つならば、聖書を通して神の御心を発見し、救いの原理を見出し、それに従おうとするでしょう。

V−−26〜27
 イエス様の答えのもう1つは、こうです。26〜27節。モーセ五書だけ尊重していたサドカイ人は、モーセ五書に復活が教えていないと考えていましたが、イエス様は、モーセが神様から「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と語りかけられたことを引用して、復活の証拠としています。出エジプト3:6。神様は、モーセに対して、その時も先祖のアブラハム、イサク、ヤコブの神であると宣言されておられます。なぜでしょう。天国でアブラハム、イサク、ヤコブは生きているからです。アブラハム、イサク、ヤコブが死んだ者ではなく、今も生きている者であるというのです。これは、今も神と交わりがあるということです。そこにいた律法学者は、「立派なお答えです」と絶賛し、彼らはもうそれ以上質問しなくなりました。ルカ20:39〜40。
 イエス様は、アブラハム、イサク、ヤコブの神であると現在形で言われました。聖書の神様の名前、ヤッハウェーとは、「自ら存在される方」という意味です。この神様が、今私と一緒におられ、私をご覧になられ、私の話を聞いておられるのです。私たちはこの神を信じているのです。どんなに確かなことでしょう。平安に包まれます。心配する必要がありません。マタイ11:28。
 生きている神を信じる者は、生きている者です。イエス様の十字架によって救われた者は、新しく生きる者となりました。永遠に主と生きる者となりました。すでに信仰にあって召された信仰の先輩たちは、今も主の前に生きているのです。私たちも、すでに召された信仰の先輩たちと共に主の前に生きていることになります。なんという恵み、祝福でしょう。神様は、イエス様の十字架の犠牲のゆえに私たちを生かしてくださいました。
 神様が、モーセに対して「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われたのは、イスラエルを救う役目を与えているところです。出エジプト3:4〜8。なぜ、そこでアブラハム、イサク、ヤコブを生きている者として持ち出しているのでしょうか。神の民を救う約束をアブラハム、イサク、ヤコブとされたからです。信仰によって神に近づく者に、その契約を成就してくださる神であることを示されたのです。ヘブル11:6。
 それは、死や滅びで終わる人生ではなくて、永遠の救いへの回復の契約、つまり復活と希望の契約であることを強調していたのです。イエス様の十字架の御業によって契約を成し遂げられた神は、今も生きて働いておられます。Tコリント15:20〜22。生きている者の神を信じる時、神の力を体験することができます。神様は、私たち一人一人の生活の中で働かれる人格的な神様です。神はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、私の神です。



マルコ12:18 また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。
12:19 「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がない場合には、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』
12:20 さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。
12:21 そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。
12:22 こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。
12:23 復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。」
12:24 イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。
12:25 人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。
12:26 それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。
12:27 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」



使徒23:8 サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである

申命記25:5 兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、入り、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。
25:6 そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。

Tコリント15:42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
15:43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
15:44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

出3:6 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。

ヘブル11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

Tコリント15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。

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