2018年12月30日「御言葉に生きよう」マルコ12:35〜40

序−「論語読みの論語知らず」という故事ことわざがあります。英語の類似ことわざでは、「ただの学者はただのロバ」と言うそうです。人は、本当に重要なことを知らないで生きていることが多いです。私たちの信仰の歩みを点検して、新年を迎えたいと思います。

T−イエス様が主であることを知らなかった−35〜37
 前の話で、イエス様が最も大切な聖書の命令は何ですかという律法学者の質問に答えて、「すべてを尽くして神を愛することと自分を愛するように隣人を愛することです」と教えてくださいました。マルコ12:29〜31。しかし、尋ねた律法学者は、その通りですと同意していながら、神の国に入るまで至りませんでした。34節。なぜでしょう。彼らは、大事なことをつかむのに失敗していたからです。自分たちの都合で聖書を読んでいたのです。
 彼らは、救い主キリストを待ち望んではいたのですが、政治的なダビデの子として来ると考えていました。35節。彼らは、救い主キリストをダビデの子孫だとしか見ていなかったのです。彼らは律法の専門家です。よく旧約聖書を知っていました。それなのに、なぜキリストを救い主と信じなかったのでしょう。36〜37節。詩篇110:1を引用して、ダビデがキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストはダビデの子孫だけなのですかと教えてくださいました。先週クリスマス礼拝で学んだ救い主の預言でも、みどり子として生まれるキリストは「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれていました。イザヤ9:6。しかし、彼らは、キリストをダビデの支配を復興する英雄として待ち望んでいました。それで、キリストを罪と滅びから人を救う方であるとは、信じなかったのです。
 イエス・キリストは、神性と人性を兼ね備えたお方です。ローマ1:3〜4。人だけなら、同じく罪人なので、私たちのために死んでも、私たちの罪の代価となることができません。ですから、神様は、ご自分のひとり子をダビデの子孫として生まれさせたのです。それによって、人間のすべての罪を取り除く十字架の死に渡され、救いの道が開くためでした。ダビデの子孫イエス様を救い主キリストと信じなければなりません。
 しかし、律法学者は、ローマ帝国の支配から解放されて、ダビデ・ソロモン時代のような支配と繁栄を切望していました。人は見たいものしか見ないと言われます。ダビデ・ソロモン時代のような支配と繁栄という強烈な望みのゆえに、キリスト救い主をダビデの子孫としか見なかったのです。それは、民も同じでした。民衆も切実にユダヤ人の王国を願っていました。彼らは、聖書を自分たちの都合のよいように解釈していたのです。聖書は何を教えているのですか。救い主イエス・キリストのことです。聖書は、イエス様の十字架の救いに集約されています。しかし、彼等は最も重要な真理の言葉を無視してしまいました。彼らは、まさに論語読みの論語知らず、いや聖書読みの聖書知らずだったのです。
 日本人の信仰観は、ご利益信仰です。自分勝手なお願いをし、自分の都合の良いことだけ聞き、戒めなどは聞きたくないのです。自分の言うことを叶えてくれる便利な神を求めるのです。私たちはどうでしょうか。恵みや祝福は求めるけれども、罪や悔い改めは聞きたくないのでしょうか。自分の求めに合う部分は喜んで聞くが、そうでない所は、聖書はそう言うけれどもと言って斥けるのでしょうか。私たちは、救い主イエス様を握り、神様の御心を求め、御言葉に従って生きたいのです。ローマ12:2。

U−見栄を張り、外側を飾る生活−38〜40
 御言葉をそのまま理解し、救い主を受け入れることに失敗した彼らは、実生活においても、失敗してしまいました。彼らの特徴は、こうでした。38〜40節。当時のユダヤ人社会の様子をあらわしたものです。民にも影響を与えていたでしょうから、律法学者だけでなく、一般の民も同じ価値観になっていたと思われます。
 律法学者が行く好きな所がありました。1つは、人々が集まる広場や市場のような所です。広場や市場のような所では、商売がされるだけでなく、社会的な交わりや用事が行われていました。彼らは、そこに顔を出しては、挨拶をされるのを好んでいました。また、人々が集まる会堂の上席や宴会の上座を好みました。人々から敬われ、社会的地位が高い者として扱われることを望んだのです。傲慢、高慢の思いからでした。これについては、日本の習慣も同じですね。
 それから、長い衣を着て、長い祈りをすることを好みました。どちらも長いです。要するに目立ちたいからです。個人でする祈りはいくら長くてもいいでしょう。しかし、人々の前で目立ちたいためにする長い祈りは、人迷惑な自分勝手です。彼等の着ていた長い服は明らかに目立つ、豪華で威厳のあるものでした。現代日本でも、特別に裾を長くした服を着たり、奇抜なファッションをしたりするのも目立ちたいからでしょうか。
 彼らは、行動も失敗しています。やもめなど助けを必要としている弱い人々を助けるどころか、逆に困らせることになりました。偉ぶって権威を振りかざしている彼等を接待するのは、貧しい人々にとって大変な負担となったことでしょう。高慢な彼等が、人に仕えるのは到底無理なことです。神の御子として来られたイエス様は、そんな栄光の権威を振りかざすことなく、徹底的に仕える者の姿を取り、十字架にまでかかられました。そして、イエス様を信じる私たちにも、仕えるしもべになるように言われました。マルコ10:43〜45。
 どうして、人は偉ぶりたいのでしょう。目立ちたいのでしょう。人から認められたいからです。人に認められる、評価される、これは大きな心の偶像の1つです。それを拠り所に生きようとするからです。誰の心にもあります。人から認められないなら寂しくなります。人が認めてくれるように強要する人もいます。でも、神が私たちを高価で尊いと評価して、愛してくださいました。イザヤ43:4。神様が私たちを愛してくださっています。ヨハネ3:16。それで人を愛して仕えるなら、人からも認められ、敬われるでしょう。
 このような律法学者の生活は、神を愛し、隣人を愛する姿からまったく外れたものでした。彼らは、律法を研究し、知識を多くすることには熱心でも、その精神を実生活に生かすことには関心がありませんでした。彼等は、人の視線を気にしても、自分を見ておられる神の目を気にしませんでした。詩篇94:9。彼らの信仰生活は、自分の栄光を求めるのが目的でした。

V−御言葉に生きる−40
 彼らの姿は、「見えを飾るため」でした。40節。見栄を張る、うわべを飾る、外見を目立たせるというのは、人の罪から来ます。彼等がそのような姿を見せていたのはなぜでしょう。彼等が神の前に生きていたのではなく、人の前に生きていたからです。彼等の考え方は、内容よりも形式でした。本質を見失っていました。
 こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けると言われていますが、それは、御言葉を知っていて、御言葉に生きていないからです。イエス様が警告されているのは、問題が律法学者に止まらないからです。話を聞いていた民も、いや私たちでも、一瞬にして律法学者と同じようになるからです。律法学者のようにできないから、しないだけです。することができたらうやうやしく挨拶されるのを好み、上座や上席に座りたがり、目立ちたいでしょう。誰しも人の評価を求めているからです。
 聖書を学び、御言葉を聞くことは大事です。しかし、知識だけで終わったら、うわべで終わります。その知識を生かすこと、実生活に適用することが大事です。御言葉を適用して生きて行くことは、とても重要なことです。良い信仰の人は、御言葉を適用する人だということができます。適用することで、御言葉が自分のものとなるからです。人生の本質である救い主イエス様をつかみ、御言葉を生活に適用すると、神の御心が生活の現場でなされるようになります。驚くべきことです。御言葉が与える深い意味を知ると、本当に信仰生活が楽しくなります。
 見栄を飾るという彼等の姿は、罪によるものです。彼らの高慢や自己中心という罪です。神様から離れて、神様中心ではないことから罪が始まるからです。創世記3章。認められないと妬んだり、憎んだりします。これも、罪です。ですから、自分の努力でこういう思いを払拭しようとするのは難しいのです。罪が元なのですから、イエス様の十字架を信じて、罪赦されて、自分を捕らえていた罪から解放されることで、その生き方や生活が変わります。
 御言葉を生活に適用しないから、生きる目的が分からないし、御言葉に聞き従おうとしないから、生活の大事な所が分かりません。しかし、本質が分かると、目標がはっきりして来ます。目標がはっきりするとアイデアや知恵が出て来ます。そして、結果が出て来ます。ですから、私たちは、人生の本質を握り、目標を持って生きなければなりません。その本質は、救い主イエス様であり、イエス様の十字架による救いです。
 黙想してみましょう。解決しない問題がありませんか。悩みや痛みが続いていませんか。今信仰に生きているだろうか。御言葉を生活に適用しているだろうか。イエス様の十字架を握って生きているだろうか。




マルコ12:35 イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた。「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか。
12:36 ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています。『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』
12:37 ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう。」大ぜいの群衆は、イエスの言われることを喜んで聞いていた。
12:38 イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、
12:39 また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。
12:40 また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」




ローマ1:3 御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、
1:4 聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。

マルコ10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

詩篇94:9 耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。


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