2019年4月7日「ののしられ、見捨てられて」マルコ15:26〜38

序−十字架刑の残酷さや鞭打ち刑の酷さばかり強調されますが、十字架の場面をみると、別の痛みが描かれており、その痛みが私たちに癒しや解放を与えていることがメッセージとなっています。

T−罵られ、嘲られる痛み−29〜32,Tペテロ2:23〜24
 十字架にかけられたイエス様に向かって、道行く人々が、ののしり、あざけっています。「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」とののしりました。30節。祭司長、律法学者たちも、「他人は救ったが、自分は救えない。十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから」とののしりました。31〜32節。イエス様といっしょに十字架につけられた者たちも、同じようにイエス様をののしりました。32節。イエス様を十字架にかけたローマ兵たちも、「ユダヤ人の王なら、自分を救え」とあざけりました。ルカ23:36〜37。
 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いて、ユダヤ人の王様、ばんざい」とローマ軍の兵士たちが叫んだのも、あざけりでした。18節。祭司長たちが、「イスラエルの王様」と呼びかけているのも、あざけっていたのです。32節。道を行く人々は、「頭を振りながら」ののしっていました。29節。「頭を振りながら」というジェスチャーは、苦しんでいる者に対してあわれみを示すよりも、逆に皮肉や軽蔑を強く示したものです。詩篇22:7。
 十字架の現場にいたすべての人々が、イエス様をののしっています。あざけりの言葉を浴びせています。どんなに辛いことでしょうか。私たちが職場の人々からののしられ、学校の人々からあざけられ、周りの人々から悪口雑言を浴びせられる、そんな状態の中に自分がいるのを想像してみてください。耐え難い苦痛です。どれほど心痛むことでしょうか。体の傷は癒えても、心の傷は癒えないと言われます。
 十字架の現場にいたすべての人々が、十字架につけられたイエス様に対するあわれみや同情をまったく示していません。イエス様を非難し、あざけり、侮辱しています。理性を失った人々に、人としてのあわれみの心を見つけることができません。人が持っている罪の姿を見せています。
 イエス様がこれほどまでにののしられ、あざけられ、侮辱されておられるのは、なぜでしょうか。私たちは、人々からののしられ、あざけられ、侮辱されるならば、イエス様は、私たちのために、ののしりやあざけりを受けてくださいました。イザヤ53:4。そして、十字架の上で、私たちの痛みをその身に負われました。Tペテロ2:23〜24。ですから、イエス様の十字架を信じる者は、キリストの打ち傷のゆえに癒されるのです。
 イエス様は、ののしり返すことはなさらないで、神様に委ねられました。ののしり返したり、悪口雑言を返すなら、私たちも罪に陥るでしょう。マタイ15:19。人はののしられ、あざけられることには敏感ですが、自分が人に言う時はののしっているとは思わないかもしれません。イエス様のように、ののしり返すことをせず、神様にお委ねしてみましょう。イエス様の十字架のゆえに癒されたのですから。

U−見捨てられる痛み−33〜35,詩篇22:1,6〜8
 ののしられ、あざけられるよりももっと心の痛みとなることがあります。見捨てられることです。イエス様は、十字架上で、大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれました。34節。それは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。そうです。イエス様にとってもっとも痛いのは、父なる神に捨てられることでした。その心の痛みがあまりにも大きいので、大声で叫ばれました。
 このイエス様の言葉は、詩篇22:1の引用です。ルターは、詩篇研究の中でこの22篇を発見して、驚いたそうです。22篇には、十字架のイエス様を示す様子が預言されており、第5福音書とも呼ばれています。
 イエス様は、エルサレムの権力者から憎まれて捨てられ、無罪と分かったピラトから捨てられ、ホサナと賛美した群衆から捨てられ、3年間ともに過ごした弟子たちからまで捨てられました。苦難のしもべが、人々からさげすまれ、人々からのけ者にされると預言されたとおりです。イザヤ53:3。私たちも、人々から見捨てられることは、心に大きな痛手となります。職場の人々から見捨てられ、友人から見捨てられ、家族からまでも見捨てられたと感じたら、どんなに心が痛くて、苦しいことでしょうか。たましいの喪失感を味わうことになるでしょう。
 あまりに酷い目に遭い、人々から見捨てられる時、世の人々は神なんているもんかと嘆きます。私たちが信仰生活をしている中で、最も困難な期間は、神に見捨てられたと感じる時ではないでしょうか。理解しにくいことが続けざまに起こる時があります。懸命に生きていたのに病気になることがあります。大きな問題が自分や家族を襲うこともあります。いくら祈り叫んでも、応答がないように思われます。そのような時、私たちは、神様から見捨てられたと感じるのです。
 でも、私たちは見捨てられることはありません。たとえ周りの人々から見捨てられたとしても、神様は私たちを見捨てることはなさいません。Uコリント4:9。イエス様が私たちの代わりに神様から見捨てられたからです。人が罪を犯すと神様から遠ざけられます。神から見捨てられるのです。神様は、聖なる方なので、罪を容赦なさいません。十字架は、神に見捨てられる場でした。イエス様は、人々の罪のために身代わりに神に見捨てられました。
 しかし、同時に神様は、愛なるお方、あわれみ深いお方です。私たちの罪をまったく罪のないイエス様に負わせ、十字架に渡されました。ののしられ、あざけられ、私たちが受けるべきのろいと神様の御怒りを代わって受けてくださいました。それによって私たちに平安をもたらし、その打ち傷によって、私たちはいやされたのです。イザヤ53:3〜6。
 日中空が暗くなりました。33節。人々の罪の身代わりに十字架にかかられたイエス様の上に、のろいと裁きが下されたことを意味しています。しかし、イエス様は、この恐ろしいのろいと裁きの中で、十字架に苦しみながらも、神様を恨んだり、ののしる人々を憎んだりされませんでした。かえって、人々を赦してくださるように神様にとりなし祈られました。ルカ23:34。
 ですから、仮に誰かからののしられ、見捨てられたとしても、恨まないでください。憎しみ続けないでください。それは、自分も相手を心でののしり、見捨てたと同じだからです。恨み、憎んだとしても、心の傷は治りません。痛むだけです。十字架上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたイエス様を思い出してください。イエス様の十字架の打ち傷が、私たちの心の傷を癒します。

V−イエス様の痛みが私たちを救った−31〜32,34,37〜38
 イエス様は、最期に大きな声をあげて、息を引き取られました。37節。この叫びは、ルカ23:4によれば、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」という叫びです。贖いの御業をなしたということです。その時、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。38節。聖所と至聖所を隔てる幕が裂けたということです。つまり、神様と私たちを隔てていた罪のための壁が、イエス様の犠牲によって崩れたということです。イエス様の血によって、大胆に聖所に入ることができるようになったのです。ヘブル10:19。
 イエス様の十字架の描写は、人々のイエス様へののりしり、あざけりで満ちています。しかし、驚くべきことに、そのののしりやあざけりの中に十字架の意味を示しているのを発見することができます。まず、「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ」(29節)と皮肉って、あざけっていますが、それはイエス様が十字架に死んで三日目によみがえることを言っていたことになります。ヨハネ2:22。
 また、祭司長たち、律法学者たちが「他人は救ったが、自分は救えない」(31節)とののしり、あざけっていましたが、それこそイエス様の贖い、十字架の身代わりの死による救いを語っていました。イエス様は自分を救う御力は持っておられましたが、自らの命を救うことを拒否されました。なぜなら、私たち一人一人を救うためです。私たちへの愛のために、「他人は救ったが、自分は救えない」とされたのです。
 なぜ人々は、「十字架から降りてみろ」(30節)とののしるのでしょうか。イエス様の救いの御業を妨げようとするタサンが言わせていたのです。私たちが人々からのののしりやあざけりを聞く時、サタンがそう言わせて、私たちを罪に陥れようとしていることに気付かなければなりません。ののしり返し、憎むなら、サタンの策略に落ちています。Uコリント2:10〜11。
 人々は、罪状書きに「ユダヤ人の王」(26節)と書いてあざけり、「キリスト、イスラエルの王さま」(32節)とののしりましたが、まさにイエス様は、私たちの救い主キリストであり、王となられました。何と言うことでしょう。こうして人々のののしり、あざけりは、イエス様の救いの御業を証ししたものとなりました。
 私たちも人々からのののしりやあざけりをこのように受け止めることができたら、幸いです。怒りも恨みも生じません。イエス様は、山上の垂訓で言われました。「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです」マタイ5:11。



マルコ15:26 イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
15:27 また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。
15:29 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。
15:30 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」
15:31 また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。
15:32 キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。
15:33 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。
15:34 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
15:35 そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。
15:36 すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」
15:37 それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。
15:38 神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。


詩篇22:7 私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。

Tペテロ2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

マタイ15:18 しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。
15:19 悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。

イザヤ53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

Uコリント4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

ルカ23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

ヘブル10:19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。

Uコリント2:10 もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。
2:11 これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。

マタイ5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

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