2019年4月14日「十字架が導く信仰告白」マルコ15:39〜47

序−イエス様が悲惨で残酷な十字架で死なれました。それは、これでイエス様の働きは終わりだと思われた瞬間でした。しかし、十字架は、その現場にいた人々の心を変え、彼らの信仰告白が始まりました。これで終わりだと思った時、新たな展開の始まりなのです。

T−正面に立っていた−39, 44〜45
 イエス様が受けた逮捕から尋問、拷問、十字架刑までを至近距離で目撃した人々がいます。ローマ軍の兵士たちです。その中に、イエス様の十字架刑を担当した百人隊長がいました。39節。「イエスの正面に立っていた」ということは、つぶさに間近に十字架刑を目撃したということです。ローマ軍の百人隊長とは、100人ほどの兵士を率いてローマ軍の中枢を担い、ローマ軍の背骨と言われた下士官でした。戦闘の陣頭指揮を取り、戦場での戦死率も高かった。大きな責任を負いながら、いつも死を覚悟して生きる人生でした。私たちも、社会の中で、百人隊長のような責任を負っているかもしれません。厳しい環境の中で生きているかもしれません。
 現場責任者としてイエス様の十字架刑を見ていた百人隊長が、イエス様が息を引き取られたのを見て、彼は、「この方はまことに神の子であった」と呻くように独白しました。つまり、信仰告白です。一体どのようにしてこのような告白をするに至ったのでしょうか。彼の心にどんな変化が起きたのでしょうか。これまで兵士たちは、イエス様をあざけり、ののしり、拷問を加えた人々でした。彼らにとっての神は、偶像であり、ローマ皇帝でした。そんな百人隊長が、なぜ、変わったのでしょうか。
 百人隊長になって想像してみてください。間近にイエス様の様子、言葉を一部始終見て、聞いていたのです。あざけり、ののしり、拷問を加えた者に対して、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈られました。悔い改めた死刑囚に対しても、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と言われました。彼は、それを聞いて、感動し、悔い改めたのでしょう。ルカ23:34, 43。これまで多くの囚人の死を見て来て、いつも死の危険の中にいた百人隊長であった彼は、この方が自分のために十字架にかかり、自分の命を贖ってくだった救い主、神の子なのだと確信したのです。
 マルコ1:1に「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」とありましたが、福音、ユーアンゲリオンというギリシャ語は、元々「戦勝の良い知らせ」を意味した言葉でした。彼は、まさに人生の勝利を知らせる福音、グットニュースをイエス様から得たのです。人という危うい存在を真剣に考えるならば、自分の命のこと、救いのことをまじめに考え、求めなければなりません。
 十字架刑を担当した百人隊長の報告は、ピラトも認める確かなものです。こうして、イエス様の十字架と復活の確かさが、この百人隊長によって証しされたことになります。44〜45節。彼は、イエス様を信じる者として、主の死を告げ知らせる働きをすでに始めたことになります。Tコリント11:26。
 私たちも、きょうこの百人隊長を通して、十字架のイエス様を間近に感じて、信仰告白を新たにしたいと願います。

U−遠くから見ていた−40〜41,47
 十字架の場面には、遠くのほうから見ていた女性たちもいました。40〜41節。男性の弟子たちはみな、逃げてしまいましたが、女性たちは離れた所で十字架のイエス様を見守っていました。これらの女性たちの多くは、イエス様がガリラヤにおられた時、いつもつき従って仕えていた女性たちでした。つまり、女性たちの多くは、イエス様に助けていただき、癒された体験の持ち主だったということです。
 例えば、マグダラのマリヤ。この人は、イエス様に出会うまで悪霊につかれて苦しんでいた人でした。ルカ8:2。悪霊にとりつかれたまま家を出て、癒しを求めて放浪していたようです。どんなに悲惨で苦しい人生だったでしょうか。けれども、イエス様に出会って、悪霊を追い出していただき、癒しとたましいの安らぎを得ることができました。どんなに感謝なことだったでしょうか。それ以来、イエス様に仕えて人生を歩んで来ました。他の女性たちも、イエス様に出会い、癒され、恵みを受けて、イエス様に仕え、助ける働きをするようになりました。
 ですから、イエス様が捕まって、弟子たちが逃げてしまったとしても、ゴルゴタの刑場に行くイエス様について行き、「遠くから」であっても、イエス様の十字架を見守っていました。その十字架の様子を見ていて、ますますイエス様に対する確信、救われた恵みを深く感じていたことでしょう。もう、恐れることなく、葬儀のために、イエス様の葬られる墓を確かめに行きました。47節。そして、イエス様の復活を一番はじめに目撃することになり、弟子たちに知らせ働きを担います。ヨハネ20:1,18。
 私たちも、イエス様に救われ、癒され、恵みを受けた者です。イエス様の救いの恵みに応えて、イエス様に仕える生活をしているでしょうか。イエス様の救いの恵みを証しする人生となることを願います。

V−思い切って−42〜43,46
 そして、何とイエス様の遺体の下げ渡しを願う者があらわれました。42〜43節。当時は、夜から次の日になります。安息日になれば、社会の決まりで埋葬ができなくなります。そこで、アリマタヤのヨセフは、思い切って総督ピラトのところに行き、イエス様のからだの下げ渡しを願いました。なぜ、「思い切って」なのでしょうか。
 このアリマタヤのヨセフは、どんな人物だったのでしょう。有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人でした。42節。それなのに、これまでまったくその名は登場していません。つまり、イエス様の弟子ではあったけれども、ユダヤ人を恐れて、そのことを隠していたのです。ヨハネ19:38。大祭司カヤパ邸宅での尋問でも、ピラトの裁判の場面でも、登場しません。つまり、イエス様を死刑にするとは賛成していなかったが、黙っていたのです。ルカ23:51。ユダヤ人社会で権力と地位を持っていたヨセフは、自分がイエス様の弟子であると知れたら、どんなに失うものが多いだろうかと考え、隠していたのです。
 彼は、人生の現場では、イエス様を信じていることをあらわさずに生きていた人でした。職場で不利になると考えて、クリスチャンであることを隠したままで働く人がいます。何か言われるのではと思い、学校の友人にも、近所の人にも、クリスチャンであることを言わずに過ごす人もいます。そのために時には心が痛み、信仰が曲げられてしまう場面に出会でしょう。私たちも、信仰と生活が一致しない生き方をしている時があります。
 イエス様の下げ渡しをピラトに願い出るということは、自分がクリスチャンであるということを公開することになります。なぜ、恐れて、信仰を隠していたヨセフが、自分の信仰を公開するようになったのでしょうか。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」というイエス様の祈りを聞いて、感動したからでしょうか。確かに、信仰を隠したままの自分のことを言われた思いがしたでしょう。
 一緒に十字架につけられた強盗の悔い改めと、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」というイエス様の宣言を聞いたからでしょうか。十字架の場面の1つ1つを見ながら、お言葉を聞きながら、衝撃を受け、感動し、もう隠していることはできなくなって、「思い切って」ピラトに申し出たのです。「思い切った」ということは、不利益や犠牲を覚悟したということです。信仰を公にして生きる決断をしたのです。このことが、彼の人生を変えました。イエス様の弟子、クリチャンとして信仰で生きて行く人になりました。ヨセフの姿を通して、私たちが下すべき決断はなんだろうか、と考えてみることを願います。
 信仰をあらわすことは、自分が社会で信仰で生きることができるだけでなく、他の人の救いや信仰に感動や影響を与えます。ヨセフの埋葬を手伝ったニコデモという人のエピソードを引用しましょう。ヨハネ19:38〜39。アリマタヤのヨセフがピラトに願い出たことの直ぐ後に「ニコデモも」と、ヨセフの影響によることが強調されています。「前に、夜イエスのところに来たニコデモ」と枕詞が付いているのは、ニコデモとイエス様の出会いのことが念頭にあります。ヨハネ3:1〜2。ユダヤ人の指導者であったニコデモは、ユダヤ人に知られることを恐れて、「夜」イエス様を訪ねていました。
 そんなニコデモでしたが、あきらかにイエス様を信じる者になっていたはずなのに、信仰は明らかにされていません。彼も不利益や犠牲を恐れて、イエス様を信じたことを隠していました。しかし、サンヘドリン議員のヨセフの信仰公開を見て、感動して、勇気を与えられたのです。自分の信仰の姿勢が他の人に影響していることを忘れないでください。その時、ヨセフもニコデモも、自分にできることを主のためにしました。ヨセフは墓を提供し、ニコデモは高価な没薬をささげました。46節, ヨハネ19:39。
 私たちは、今どんな状態にいるのでしょうか。心では信じているけれども、告白できないままでしょうか。生活の現場で、クリチャンであることを言い表すことに躊躇しているのでしょうか。信仰と生活が一致しないままなのでしょうか。百人隊長やヨセフのように、十字架のイエス様の前に立って、「思い切って」決断できることを願います。Tヨハネ4:15。



マルコ15:39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。
15:40 また、遠くのほうから見ていた女もいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。
15:41 イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。
15:42 すっかり夕方になった。その日は備えの日、すなわち安息日の前日であったので、
15:43 アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。
15:44 ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出し、イエスがすでに死んでしまったかどうかを問いただした。
15:45 そして、百人隊長からそうと確かめてから、イエスのからだをヨセフに与えた。
15:46 そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。
15:47 マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた。



ルカ23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

Tヨハネ4:15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。

ルカ8:2 また、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、

ルカ23:51 この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。

ヨハネ19:38 そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。
19:39 前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。

ヨハネ3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」

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