2019年4月21日「あの方はよみがえられました」マルコ16:1〜8

序−ある哲学者は、「絶望は死に至る病である」と言いました。人は何かによって絶望するのですが、きっかけとなった出来事よりも、絶望そのものが人を死に至る病にしてしまうのです。人を死に至る病から救うのが、復活の信仰です。イースターの朝、イエス様の復活に接した人々の姿を通して学びます。

T−絶望、驚き、恐れ−1〜8
 時間がないために慌しく埋葬されてしまったイエス様、女性たちは、せめて香油を塗ってさしあげようと、日曜日の朝、イエス様の墓へと急ぎました。1〜2節。イエス様を愛し、いつもイエス様に仕えていた人々でした。この時、女性たちには、悩みがありました。3節。墓の入口を塞いでいる重い石をどかしてくれる人が、誰かいるだろうか、ということでした。ところが、墓に着いてみると、墓は開いており、イエス様のからだはありませんでした。4〜6節。それなのに、女性たちは、気が動転して、恐れるばかりでした。8節。なぜでしょう。
 人にとって、死はまさに絶望でした。人生の悲惨さを示すものでした。女性たちは、金曜日に十字架にかけられて、死なれたイエス様を見守っていました。マルコ15:40。女性たちの心には、絶望と悲しみでいっぱいでした。この時、女性の心には、まったく主の復活の予想も希望もありませんでした。金曜日に、アリマタヤのヨセフの墓に葬られ、大きな石で蓋をされるのを見ました。誰かが石をどけてくれないと、中に入れない。墓に向かう時から絶望を抱いていました。
 墓の入口を塞いでいる重い石をどかしてくれる人がいるだろうか。いや誰もいない。墓を塞いでいた重い石は、女性たちの絶望感を象徴しています。人生の問題を抱えながら、人は思うでしょう。私の道を塞いでいる石を転がしてくれる人が、誰かいるだろうか。いや、誰もいない。誰が私の人生の重い石を転がせるのだろうか。いや、誰も無理だ。仕事や生活の問題を何が解決してくれるだろうか。いや、何もない。そうして、身動きできない人生の問題について絶望してしまうのです。私たちはどうですか。何に絶望感を覚えていますか。道を塞いでいる重い石は何ですか。
 イエス様の墓に行った女性たちは、絶望していたために、重い石が転がされていたにもかかわらず、驚くばかりでした。御使いが「あの方はよみがえられました。ここにはおられません」と、空の墓を示しても、気が動転して、恐れるばかりでした。女性たちの心の絶望が、そうさせたのです。ですから、絶望は死に至る病であると言われるのです。自分をまったく見失う、どうあるべきかまったく分からない、これも絶望です。
 後で、よみがえられたイエス様が、あらわれることで、ようやく主の復活を確信し、喜んで、弟子たちに知らせるようになります。9〜10節。イエス様の復活は、すでに死は打ち破られたということの宣言です。罪に勝利したという知らせです。Tコリント15:54〜57。ですから、イエス様の復活を信じる者には、もうあなたを絶望に閉じ込める石は転がされました。イエス様の復活によって、あなたの人生に希望の扉を開いてくださいました。あなたの人生の問題は解決されることを信じなさいということなのです。復活のイエス様こそが、死、病、苦悩、それらのゆえに生じる絶望から救い出してくださる救い主なのです。

U−ガリラヤで会おう、弟子たちの復活−7, ヨハネ21章
 不思議なのは、御使いが女性たちに話した弟子たちへの伝言です。7節。伝言は、「イエス様が、弟子たちより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます」ということでした。弟子たちに知らせるなら、イエス様がよみがえられたと知らせるだけでいいでしょう。なのに、「イエス様が、弟子たちより先にガリラヤへ行かれます。そこでお会いできます」ということが、それほど大事なことなのでしょうか。
 イエス様が、弟子たちより先にガリラヤへ行かれるとは、何のことでしょうか。そこでお会いできると言うのですが、この後エルサレムにいる弟子たちのところにイエス様はあらわれてくださいます。マタイ20:19。なぜ、ガリラヤで別に会われるのでしょうか。
 「前に言われたとおり」と言うように、以前にイエス様が言われたことです。マルコ14:28。「わたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」とは、イエス様が12弟子と最期の晩餐をされた後、オリーブ山へ行く途中に言われたことです。弟子たちに対して、最終的に言われたことでした。これは、イエス様と弟子たちだけしか知らないことです。ガリラヤという一般の地名を用いたのですが、弟子たちだけには、イエス様がよみがえられたのだということを知らせる確認コードのようになりました。
 復活の信仰は、イエス様を信じる者も復活して、天国へ行くことを確信することだけではありません。復活の信仰は、地上において復活の信仰を抱いて生きることです。絶望に勝利して、希望をもって生きることです。イースターは、イエス様の十字架によって死が敗れて、命が勝利した日です。Tコリント15:57。復活は、絶望が打ち破られて、希望に立ち上がる日です。堅く立って、主のわざに励むようになります。Tコリント15:58。
 なぜガリラヤで弟子たちと会われるのでしょうか。新しいイスラエル王国建設という弟子たちの自分勝手な期待は、イエス様の十字架の死によって打ち砕かれ、イエス様を捨てて、逃げていたのです。恐れと絶望に陥っていました。ですから、女性たちよりその絶望は大きかったのです。弟子たちの夢破れて、エルサレムから都落ちです。彼らは、故郷のガリラヤに帰ることになります。
 ガリラヤは、イエス様が福音を語り、人々を癒し、祈られた所です。弟子たちと出会い、召し出された所です。様々な人々を助け、奇跡を行われた所です。弟子たちに信仰が与えられ、信仰が育まれ、弟子たちが献身した所です。3年あまり、イエス様が弟子たちと過ごされた所です。不漁で落胆したペテロに網いっぱいの魚を取らせてくださった所です。イエス様は、そのガリラヤで弟子たちと再会してくださいました。ヨハネ21章。
 その再会の場面を引用しましょう。ヨハネ21:3〜7。失望落胆し、絶望の中にあった弟子たちにあらわれてくださり、網が破れるほどの魚を取らせてくださいました。3度イエス様を否んだペテロに、3度「あなたは私を愛しますか」と問われて、使命を与えられました。ああ、イエス様が一緒だから大丈夫だ。イエス様は私を赦してくださり、私を愛して、用いてくださるのだと分かり、絶望から希望へ変えられました。こうして、死んでいたような弟子たちが、生き返って、新しい人となって生きるようになりました。Uコリント5:17。イエス様の弟子たちの復活です。

V−新しい出発、私たちの復活−
 私たちを絶望に陥らせるものは何ですか。私たちを挫折感と落胆で萎えさせることは何ですか。私たちを絶望で死に至る病にならせるものは何ですか。私たちも、復活のイエス様と会わなければなりません。私たちも、絶望から復活しなければなりません。今日、社会でも絶望と落胆のニュースがあふれています。私たち自身の生活や仕事でも、失望や挫折を与えることが多いでしょう。仕事や問題で落胆する時、その時が復活のイエス様と会う時です。私たちが何かで絶望する時こそ、復活のイエス様と会わなければなりません。
 ガリラヤ湖で弟子たちに大漁の体験を再現させてくださった後、イエス様は何をされましたか。ヨハネ21:12〜13。漁を終えて浜にあがって来た弟子たちに食事を用意していてくださいました。イエス様を捨ててしまった弟子たちは、イエス様の前に来て、決まり悪そうに黙っていました。イエス様は、優しく「さあ、来て、食事をしなさい」と言われるだけです。でも、この共なる食事が、弟子たちに赦しを与え、絶望と落胆の心に平安と希望を与えてくださいました。私たちが兄弟姉妹と食事を共にする時、イエス様と一緒に食べる愛餐と思いましょう。私たちにも、平安や癒し、希望が与えられることを願います。
 ガリラヤは、失敗した愛を取り戻すところです。ペテロに問うたように、私たちにも「あなたは、わたしを愛しますか」と問うてくださいます。イースターは、私たちに愛を回復させてくださる時です。イエス様は、食事で優しく弟子たちを悔い改めてくださったように、私たちを悔い改めさせてくださり、再び弟子として歩みに導こうとされます。失望落胆した私たちに、復活の命を与えられたのだから信じて歩むようにさせてくれます。私たちに新しい使命を与えて立ち上がらせてくださいます。
 私たちの人生は、あまりにも忙しくて、複雑で、心や目を奪うものが多くて、ガリラヤを失っています。なぜ生きているのか、人生のビジョンを失っています。仕事や生活から受ける失望や焦燥のため、ガリラヤを失っています。イースターは、赦しと命を受ける時であり、ビジョンを新たにする日であり、新しい使命に生きて行こうとする時です。
 イースターを祝うことは、イエス様がよみがえられたという歴史的出来事のためだけではありません。私たちの将来の復活を確かにしているだけでなく、私たちの現在の復活を与えているのです。復活の信仰を確立して、世に勝つ信仰生活となることを願います。Tヨハネ5:5。



マルコ16:1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
16:2 そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。
16:3 彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」とみなで話し合っていた。
16:4 ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。
16:5 それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。
16:6 青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。
16:7 ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい。」
16:8 女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。



Tコリント15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

マルコ14:28 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」

ヨハネ21:1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

Tヨハネ5:5 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。


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