2019年1月6日「主が見ておられる」マルコ12:41〜44

序−間違って使われている言葉がけっこうあります。例えば、確信犯、話のさわり、失笑する、なしくずしなどです。聖書の中の話も、けっこう間違って理解されていることがあります。今朝の箇所は、献金のことを教えているわけではないし、自己犠牲の話でもありません。

T−見栄をはる姿−41〜42
 イエス様は、神殿の献金箱が見えるところに座って、献金箱にお金を入れる人々の様子を見ておられました。神殿の庭の壁には、青銅製の献金箱が並んでいたそうです。そして、ラッパ状の形をしており、その中にコインを投げ入れるようになっていました。以前に韓国の高速道路の料金所でラッパ状の料金箱に小銭をジャラジャラと投げ入れるのを見て、その音にびっくりした光景を思い出しました。お金を入れると音が出るのは、日本の神社の賽銭箱に似た感じですね。
 こういう状況からどんなことが起こるでしょうか。貨幣はみな金属製です。紙幣などありません。ラッパ状の青銅製の箱に金属のコインを投げ入れると、お金は音を立てながら、下に落ちて行きます。金持ちがたくさんコインを勢いよく投げ入れると、否が応でも大きな金属音を立てて落ちて行きます。それを聞いていた人々が、あの人はたくさん入れたんだなと分かるのです。分かるようにわざと音を立てたでしょう。音が出るように作られていたのでしょう。
 そうです。41節のような人々がしていたのは、人々に気付いてほしい、見てほしいという思いからしていました。人々の評価を期待したものでした。高慢と偽善の姿でした。神殿での献金、神様へささげるという思いはどこに行ったのでしょう。前回の箇所の律法学者の姿と同じですね。38〜40節。長い袖や裾の服を着ていれば、目立ちます。広場や市場で挨拶されることを好んだからです。会堂の上席や宴会の上座に座り、目立とうとしました。信仰深く見られるために、目立つように長い祈りをしました。それでいて、やもめのような人々の助けにはなりませんでした。
 このような人々は、自分を目立たせて、威張って、自慢していました。彼らの心には、神様への思い、信仰はありませんでした。ただ敬虔そうに見えるためにわざわざそんな服装をして、挨拶を受けるためにわざわざ広場へ出かけ、人々の賞賛と尊敬を受けたいためにわざわざ目立つ長い祈りをしました。きょうの箇所の献金する金持ちも、わざわざ大きな音を立てて投げ入れていたのです。わざわざ大きな重いコインを入れたでしょう。たくさん献金してすごいな、信仰的だなという賞賛を受けようとしました。こうして、神様が受けるべき栄光を自分が受けようとしていたのです。
 このような人々の姿を人事とすることはできません。日本の社会でも、献金者の名前を報告書はもちろん、掲示板に記したり、神社の石柵に刻んだりします。そうしなければ、承知しないからです。次に出してもらえなくなるからです。人の評価を得る、人に認められることが快感であり、偶像になっているからです。神の民でも、その姿に陥っていたのです。神様の恵みと守り感謝してささげるという思いはどこに行ったのでしょうか。私たちは、どうでしょうか。

U−神様を求める姿−43〜44
 続けて、イエス様がお金を投げ入れる人々の様子を見ておられたら、今度はひとりの貧しいやもめが静かにそこに来ました。42節。その貧しい人は、軽くて小さなコインを投げ入れました。その音で、どんなコインをどれだけ入れたのか、人々に聞かれるしかありませんでした。どんな思いになったでしょうか。貨幣の種類と額まで分かります。レプタ銅貨を二枚です。一コドラントに当たると説明されています。聖書に出てくる貨幣価値交換レートを比べてみれば、1レプタ=1/2コドラント=1/8アサリオン=1/128デナリとなります。デナリは一日分の労賃、1アサリオンで二羽の雀が買えました。マルコ12:15脚注,マタイ10:29。1レプタで当時かつかつ1食分になったそうです。ついでに、タラントは金や銀の質量をあらわしたもので、貨幣ではありません。1タラントは6千デナリの価値の量です。
 ジャラジャラと入れていた人々と比べて、この人には自分を見せるものは何もありません。着飾る服もなければ、きれいに化粧することもできません。すべてが不足していました。人々の見えるところで音の出る投げ入れは、どんなにか身の縮むような思いだったでしょうか。それでも、こうして神様に献金をささげるために来ました。イエス様の見ておられるところで2レプタをささげました。心を尽くして神様にささげました。
 ここで、イエス様は弟子たちを呼んで、こう言われました。43〜44節。イエス様は、この人を賞賛しました。なぜでしょう。この人の心を見たからです。他の誰よりも、神にささげる確かな心があったからです。イエス様は、弟子たちに賞賛した理由を説明してくださいました。「みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたから」と言うのです。44節。あるだけを全部、生活費の全部というのです。そんなこと、誰ができるでしょう。
 でも、これを聞いて心痛みませんか。なけなしの食事代をささげてしまったら、明日働いて食を得るまでは、もう食べることはできないかもしれない。自分だったら、そんなこと絶対にしないと思うでしょう。そんなことは愚かなことだと批判するでしょう。もちろん、聖書も、そんな自己犠牲を求めているわけでもありません。でも、この人はそれをしたかったです。一時ひもじい思いをするけれども、心は平安だったのでしょう。何もなくて、ただ神様だけを頼って生きて来た、貧しくても、生活が守られている、その恵みと守りを覚えたら、感謝してささげたくなったのです。
 この箇所は、献金の仕方について教えているところではありませんが、聖書が献金の内容について書かれているのは、たとえば、旧約聖書では、神殿に収入の1/10をささげる什一献金があり、新約では、「収入に応じて」とか「いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい」と勧めています。Tコリント16:2、Uコリント9:7。そこに「神は喜んで与える人を愛してくださいます」と付け加えられているように、ささげる心が大切だと教えています。この貧しいやもめも、「心で決めたとおりに、喜んで」ささげたのです。
 この心が律法学者や金持ちたちにはありませんでした。イエス様がこの人を賞賛しているのは、「みなは、あり余る中から」だけれども、「この女は、生活費の全部」という比率のためではありません。イエス様は、この人の心をご存知でした。どのような心構えでささげたのかを「見ておられた」のです。この人の姿は、どこに価値観をおいて、何を優先事項としているか示していたのです。
 お金の使い道は、一人一人違います。それぞれの価値観が反映されます。前の箇所を参照すれば、「すべてを尽くして神を愛する」ということが、この人の献金を含む信仰の根本的態度でした。30節。私の所有するすべてが主のものであるという信仰の思いをあらわしているのが、献金でした。私の富も、時間も、命までも神のものという信仰の心が大切です。そこから、私たちはどう生きるか、どう働き、どう学ぶかが出て来ます。新しい年、改めてこの信仰の根本精神に立って、歩みだしたいと願います。

V−信仰の心をご覧になる主−詩篇139:23〜24
 今日の箇所は、心の問題でした。どのような心でささげるのか、どのような姿勢で生きるのかということです。「何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい」と言われています。Tコリント10:31。イエス様は、金持ちたちが大きな音を立てて投げ入れているのを見ておられ、貧しい女が静かに投げ入れているのを注意深く見ておられました。
 このように、今も主は、私たちのする信仰生活を、献金も含めて見ておられます。どのような心でしているのか、どのような状況でささげているのか、どのような目的で行っているのか、洞察されています。ダビデ王は、神が自分の心を試される方であり、直ぐな心を喜ばれる方であることを知って、みずから進んでささげていました。T歴代29:17。主は、その人の心と姿勢を見ておられます。
 この人は、神の主権と愛を知ってささげています。あなたは、どのような心でささげていますか。私たちは、イエス様の十字架の犠牲のゆえに救われた者です。救いの恵みを感謝して、主の守りと導きを感謝してささげて、生活して、働いて、学んでいますか。旧約の詩人も予言者も、「神様が、自分を探り、自分の心を知って、自分を調べ、自分の思い煩いを知って、見ておられる」と告白しています。エレミヤ12:3,詩篇139:23〜24。
 神様は、私たちの信仰を見ておられます。主は、人々のささげる額を見たのではなく、その心、信仰をご覧になられたのです。金持ちは傲慢な心で来て、人々に聞かせるために大きな音を立てて投げ入れました。彼らは神にささげるためではなく、人々に見られるためにしたのです。一方、貧しいやもめは、神にささげたい情熱があまりに大きくて、飢える覚悟でささげました。この人がささげたのはレプタ銅貨2枚ではなく、神への信仰の心をささげたのです。信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。ヘブル11:6。この人の信仰は、神を信頼する信仰でした。この年、私を見ておられる主の目を意識して歩んでみましょう。マタイ6:4,7。



マルコ12:41 それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。
12:42 そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
12:43 すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。
12:44 みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」



Uコリント9:7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。

Tコリント10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。

T歴代29:17 私の神。あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛されるのを私は知っています。私は直ぐな心で、これらすべてをみずから進んでささげました。今、ここにいるあなたの民が、みずから進んであなたにささげるのを、私は喜びのうちに見ました。

詩篇139:23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
139:24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

エレミヤ12:3 【主】よ。あなたは私を知り、私を見ておられ、あなたへの私の心をためされます。

ヘブル11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

マタイ6:4 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

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