2019年1月13日「惑わされないように気をつけて」マルコ13:1〜13

序−内憂外患、多事多難というように、私たちの人生には、多くの問題や事件が起こります。時には、それらが続いて起きたり、どうにもならない大きなことになる時、絶望を感じたり、挫折に陥ります。どう受け止め、どう対処するのでしょうか。今日の箇所から学びましょう。

T−−1〜2
 イエス様は、空しいユダヤ人指導者との論争で疲れ、休むためにエルサレムを出ました。イエス様と弟子たちが神殿を出た時、弟子の一人が、神殿のすばらしさに感嘆の声をあげました。1節。ヘロデ大王は、ローマ帝国の皇帝に取り入ってユダヤの王となりました。ユダヤ人ではなかった王は、ユダヤ人の歓心を買うためにエルサレム神殿を再建しました。弟子たちが驚いたのも無理ありません。神殿の幅は300m、長さは480m、入口の柱は高さ12mの大理石160本で飾られていました。壁も白い大理石で覆われており、一番大きな石は、横13.7m、縦7.8m、高さが3.5mで、重さは570トンあったそうです。金もふんだんに使われており、日光に照らされて輝く壮麗さは言葉にもならないほどであったと言います。
 みな神殿を見て、すごいなと感嘆せざるをえませんでした。ユダヤ人にとって、神殿は誇りであり、心の拠り所でした。こんな神殿が自分たちにはある。イスラエルは再び復興すると期待していました。ユダヤ人は、この壮麗な神殿が永久に続くと思っていました。人は、頼りとするもの、心の拠り所となっているものについては、それがずっと続く、あり続けると思うものです。
 感嘆した弟子たちは、その驚きにイエス様も同感されると思っていました。ところが、イエス様は、その壮麗な石積みが崩れてしまうと言われたのです。2節。実際に、この驚異的な神殿が完成した7年後の紀元70年には、ユダヤ人の反乱を鎮圧するローマ帝国によってこの神殿は完全に破壊されてしまいます。石の間にあった金を奪うために、すべて崩してしまいました。残ったのは、城壁の西壁の一部だけです。これが、いわゆる嘆きの壁です。
 彼らは、神の民です。本当に拠り頼むべきは、私たちに救い主イエス様を送ってくださった主なる神様です。しかし、彼らは、壮麗な偉大な建物を拠り所としていたのです。私たちは、どうでしょう。最後の頼みの綱とするものは何ですか。それがなくなったら終わりだと思うことは何ですか。これが私にはあると自慢するものは何ですか。それが、自分の偶像となっているものです。形あるものは壊れます。それらは、いつかなくなり、取り去られます。ですから、私たちは、永遠に変わらないものを頼みとすべきです。Uコリント1:9。

U−惑わされないように気をつけなさい−3〜8
 神殿が破壊される預言を聞いた弟子たちは気になっていました。神殿が一望できるオリーブ山にいる時、神殿の破壊がいつ、どのように起きるのか聞きました。3〜8節。イエス様は、神殿の破壊とともに、終末のことも合わせて教えておられます。その前兆とされているのは、偽キリストの出現、戦争や紛争の噂、地震や飢饉です。当時の歴史家ヨセフスによれば、その頃何人もの自称キリストが出たそうです。使徒21:38。ヘロデ・アンテパスとナバテヤ王の間に戦いがあり、ローマ帝国に内紛が起こり、4人の皇帝が次々代わりました。ラオデキヤ、ポンペイ、エルサレムに地震が発生し、パウロが牢獄にいる時に地震が起きています。使徒16:26。
 「これらは産みの苦しみの初め」と言われています。8節。陣痛はいったん始まると、定期的に繰り返されます。これらの現象も繰り返し起こることで、「終わりが来たのではない」ということです。7節。それらの出来事や災害に遭遇して、世の終わりかのように思って心乱して、絶望してはならないということです。自然災害が続くと、さも自然環境がどんどん悪くなるかのように言う人がいます。民族や国家間の争いや問題を助長しようとする人々がいます。多くの戦争が、惑わしや扇動が重なって勃発しています。惑わしや扇動に乗らなかったら、起こらなかったのです。
 大事なことは、イエス様が最初に言われた「惑わされないように気をつけなさい」ということです。5節。多くの惑わしがあります。出来事や災害を見て、聞いて、もう終わりだと思うからです。人が惑わすからです。人生において、職場や家庭において問題や事件が起こると、すぐに私の人生は終わりだと嘆いたり、もう先もだめだと悲観したりする人がいます。私たちはどうでしょうか。確かに、仕事や家庭、学校の問題においてもうだめだ、無理だ、おしまいだと嘆いたり、悲観したりするようなことが起こるでしょう。でも、イエス様は、そうしてはならない、それで終わりではないと教えておられるのです。神様が味方です。ローマ8:31〜32。
 私たちは、イエス様の言われたことを信仰的に冷静に受け止めます。どんなに努力しても、世の中から争いはなくなりません。だからと言って、敗北主義になるのではありません。世の中はどうせ悪なのだから、世は決して変わることがないのだから、何の努力もする必要がないと言ってはなりません。私たちの仕事や学び、家庭生活において、何もしてもだめだと手をこまねいてはなりません。私たちがするべきことは多く、私たちが取り組まなければならないことがまだまだあります。敗北主義に囚われず、主が導いてくださった現場で黙々と事を行い、忍耐するのです。勝利は、イエス様に属している人にあります。ヨハネ16:33。

V−最後まで耐え忍ぶ人は救われます−9〜13
 惑わされないように気をつけなさいと言われたイエス様は、私たちに関わる神様の計画が何なのかを教えてくださいました。9〜13節。戦争や災害のように社会で起こることではなく、実際に自分自身が迫害や圧迫に出会うということです。今日的に言えば、職場や地域、学校や家庭において圧迫やいじめに遭うという感じです。
 初代教会では、多くの聖徒たちが迫害に出会いました。聖書の中にも、ステパノの殉教が有名です。使徒7:53〜60。石打ちに出会ったステパノは、「この罪を彼らに負わせないでください」と言って召されました。この光景を見ていたパウロは、後に主に立ち返ることになります。迫害に遭って投獄されることが福音を伝える機会となったことを宣教師となったとパウロ自身も証ししています。ピリピ1:12〜14。私たちの苦しみや迫害さえ、福音宣教に用いられるのです。主は、一人でも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるからです。Uペテロ3:9。私たちの苦しみや問題も、福音のために用いられるかもしれません。
 苦しい状況に置かれた時、どう弁明しようかと悩んだり、肉の感情にかられて争ったりするでしょう。そのような時、聖霊が導いてくださると教えてくださいました。弟子たちは、この言葉を握ってそのまま実践しました。使徒4:31。仕事や何かで責任を問われたり、責められたりするとき、何を言うか心配しないように、聖霊ご自身の言葉をくださるということです。どのような状況の中でも、主に委ねて祈りなさいというのです。
 また、家庭で迫害を受けたり、人々から憎まれたりするのは、もっとも辛いことです。私たちの格闘は血肉に対するものではありません。ですから、人に対して怒りや憎しみを持つのでなく、主に祈りながら対処するのです。ステパノのようにとりなします。家族が救われ、人々が主に立ち返れば、状況はよくなるからです。
 私たちの家庭や職場、学校でこのような迫害や圧迫が起こっても、決して惑わされてはなりません。福音のために起こるのならば、幸いです。罵られ、迫害を受け、ありもしないことで悪口を浴びせられても、私たちは幸いです。天の報いが大きいからです。マタイ5:10〜12。
 私たちは、神様が自分個人の人生だけでなく、世の歴史や社会の主権者であることを信じなければなりません。私たちをイエス様の十字架を通して救ってくださる神様を信頼して拠り頼む時、最も安全なのです。神様は私たちの避難所となることができます。マタイ11:28〜29。そうして、癒され、整えられたならば、主に用いられるようになります。主に用いられる者は、歴史の主人公になることができます。
 事件や災害の多さに遭遇して、世の終わりかのように思って心乱していませんか。職場や家庭において問題や事件が起こると、私の人生は終わりだと嘆いたり、もう先もだめだと悲観したりしていませんか。イエス様は、今日の箇所の最後で何と言われましたか。13節後半。「最後まで耐え忍ぶ人は救われる」と言われました。問題や事件に惑わされないで、主の導きと助け、あわれみを期待し、確信しましょう。
 このような確信があれば、どのように生きて行くことができますか。宗教改革者マルチン・ルターは、「たとえ明日世界が滅びようと、私は今日林檎の木を植える」と言ったそうです。宗教改革への迫害のために、明日の命も知れぬ状況だったルターは、このような思いをもって宗教改革の働きをしていたと思うと、感慨深いものがあります。この言葉から、どんなことを受け取りますか。今日の箇所は、イエス様が十字架で死なれる3日前のことです。イエス様の十字架が近づいている時、弟子たちにこのような話をしてくださいました。このイエス様に救われた私たちも、ルターのように生きたいと願います。ヨハネ16:33。



マルコ13:1 イエスが、宮から出て行かれるとき、弟子のひとりがイエスに言った。「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」
13:2 すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
13:3 イエスがオリーブ山で宮に向かってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに質問した。
13:4 「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」
13:5 そこで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
13:6 わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそそれだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
13:7 また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
13:8 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。
13:9 だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。
13:10 こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。
13:11 彼らに捕らえられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。
13:12 また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。
13:13 また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。



Uコリント1:9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

ローマ8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

ヨハネ16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

ピリピ1:12 さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。
1:13 私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、
1:14 また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。

Uペテロ3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

マタイ5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

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