2019年1月20日「苦難の中にある恵みと守り」マルコ13:14-23

序−苦難や問題が次々起こり、続く時、最も良くない反応は、苦難や問題ばかり、脱出の道や守りがまったくないように思うことです。それではますます絶望してしまい、落ち込むしかありません。私たちはどうでしょうか。苦難の中にある者への神様のメッセージを学びましょう。
 
T−逃げなさい、戻ってはいけません−14〜19
 イエス様は、苦難の時に備えなければならないことを教えてくださいました。まずは、注意を喚起されています。14節。「荒らす憎むべきもの」とは、旧約聖書の引用です。ダニエル9:27,11:31,12:11。預言では、神殿でのささげものがされなくなって、偶像が据えられると言っています。実際に、紀元前168年にシリヤ王のアンティオコス4世・エピファネスによってエルサレムが破壊され、偶像の祭壇が造られ、豚がささげられた事件が起こりました。この後、紀元70年にテトス将軍率いるローマ帝国にエルサレムは徹底的に破壊されることになります。ですから、荒らす憎むべきものをみたら」とは、患難を察知したらということになるでしょう。
 そのように患難が迫ったとき、まず逃げなさいとイエス様は教えられました。14節。歴史家ヨセフスの記録によれば、紀元70年のローマ軍の攻撃でエルサレムが陥落した際、110万人が犠牲となり、10万人が捕虜なりました。しかし、イエス様の警告を聞いていたクリスチャンは、それ以前にペラに逃げており、一人も犠牲になることがありませんでした。私たちも、苦難や問題の時、争いや論争を避けて、その場から逃げることが賢明であることが教えられています。テトス3:9,Uテモテ2:23。
 次に、家に戻ってはいけない、物を取りに戻ってはいけないと繰り返されています。15~16節。苦難が迫る時、なぜ戻ろうとするのでしょうか。何かに未練を持つからです。未練を持てば、逃げ遅れるでしょう。アブラハムの甥ロトがソドムから逃げる時、ソドムに未練を持っていた彼の妻は、警告を無視して振り返り、塩の柱になってしまいます。創生記19:17,26。苦難の時、かえって私たちを執着から解放させるチャンスなのかもしれません。未練を持つならば、苦難に囚われ続けることになるのでしょう。
 逃げることもままならない状況の時は、どうすればいいのですか。祈らなければなりません。17〜18節。祈ることで主の守りを受けることができます。普段は試練に会わないように祈り、試練に会ったならば、苦しみを減らし、逃れる術を求めて祈ることです。マタイ6:13,Tコリント10:13。神の守りとご計画を信じて祈りことが必要です。ローマ8:28。

U−救われ、選ばれた者は守られる−19〜23
 世においては患難や試練があり、人生には苦難や問題が生じます。しかし、苦難や試練の中でも神の聖徒たちが守れらると教えてくださいました。19〜23節。まず、苦難は起きても、その苦難の日数を少なくしてくださいました。20節。主は、聖徒たちのために、かつてなかったような苦難の日が来ても、それを少なくしてくださると約束しておられます。黙示録13:5。仮に山に逃げたとしても、患難が長引けば、見つけ出されて、捕まえられてしまうでしょう。
 苦難や問題に囚われる日々が長いと、渦中にある人々の心境はどうなるでしょう。もうずっと苦しみが続いてしまうのかな、希望はまったくないと悲観するようになるでしょう。苦しい状態に倦み疲れてしまうでしょう。苦難や問題の中にいる者にとって、苦難の日数を少なくしてくださるという約束がどれほどありがたいことでしょうか。苦難の日を短くして守ってくださるということは、苦難の中でも、主は、私たちを省みてくださるということです。これは、大きな慰めあり、恵みです。
 なぜ、苦難の日を短くしてくださるのですか。理由は何ですか。20節。私たちが、イエス様を信じて救われたからです。イエス様の十字架によって救われたのは、私たちが救いに選ばれていたからです。エペソ1:4,5,11。このことすら、神様の一方的な恵みです。
 次に、神様は、救われた者は惑わされないと保証しておられます。21〜22節。苦難の時、人々は色々言って私たちを惑わそうとします。しかし、信じてはいけません。なぜ惑わされるのですか。どうして不安になり、恐れるのですか。私たちの寄って立つべきところは、世の流れですか。人の言葉ですか。私たちは、変らない神の言葉である聖書に立ちます。御言葉の価値観によって受け止め、考え、対処するなら、惑わされることはありません。箴言3:5〜6。
 22節をよく見てください。「できれば選民を惑わそうと」とあります。できればということは、惑わそうとするけれども、結局はできないということです。私たちは、イエス様の尊い犠牲によって救われた者です。神様は、イエス様は、私の代わりに十字架にかかられるほど愛してくださいました。どんなものでも、このイエス様の愛から私たちを引き離すものはありません。ローマ8:38〜39。
 そして、まとめて「だから、気をつけていなさい」と言われました。23節。こうして、苦難の中でも守りと恵みがあっても、私たちの方で気をつけていなければ、苦難に翻弄されてしまいます。御言葉にしたがって対処しなければなりません。自分の肉の思いで反応していたら、簡単に惑わされてしまいます。そのために、イエス様は、何もかも前もって話してくださいました。23節後半。
 聖書の神は、全知全能の創造主です。今後も世では戦争や災害があるでしょう。私たちの人生にも苦難や問題が起こるでしょう。そうだとしても、恐れや不安を抱く必要はありません。すべては知らされているからです。なぜ、イエス様はエルサレムの滅亡と世の終わりの患難について教えてくださったのでしょうか。最も重要な信仰的な意味は、将来、神の救いの福音を伝える弟子たちがあらかじめ分かっていて、患難の中でも宣教の使命に忠実に果たす者とさせるためです。つまり、主は弟子たちがあらかじめ知ることによって、酷い苦難の状況の中でも揺り動かされずに、使命をよくなして行くことができるようにさせるためでした。
 弟子たちが霊的な洞察力を持って賢く状況を把握して対処して、苦難の中でも最後まで耐えて、使命を果たして行けるように、御言葉を与えてくださいました。ローマ12:2。主に喜ばれることが何であるかを見分けて、主のみこころは何であるかをよく悟りたいものです。エペソ5:10,17。

V−苦難の中にある恵みと守り−詩篇119: 67,71
 私たちが苦難について考える時、苦難だけしか見えない、苦難ばかり考えることが大きな問題です。そうなると、もう苦しくて、恐れと不安でいっぱいになり、心も体も病んでしまいます。しかし、きょう大きな苦難を知らせている箇所を学んで分かったことは、苦難の中にも恵みと守りがあるということでした。苦難に会うことが問題ではなくて、苦難を受け止め、取り組む私たちの心、信仰の姿勢が大事だということです。私たちの信仰の姿勢によって、苦難の結果は大きく変ります。御言葉を通して「前もって」教えてられています。苦難に対処する信仰の姿勢は、苦難に会ったその時に造られるのではなく、そのずっと以前に形作られていることで対処するからです。
 ですから、苦難についてどのような信仰の姿勢、どのような心で対処するのか備えをしていることが重要です。御言葉からしっかりと苦難について学び、苦難に対処する備えをしていないと、実際に苦難に会った時、人生は苦難や問題ばかりに見え、自分の状況を悲観的に考え、神様に文句を言うようになるでしょう。人は、なぜ苦難があるのか、どうして信仰をもって生きているのに苦難に会うのかと悩むでしょう。しかし、聖書は、苦難があることを知らせ、苦難をどう受け止めたらいいのか、苦難にどう対処したらよいかを教えています。
 苦難について聖書が教えているのは、苦難の正体を明らかにすることに意味があるのではなくて、苦難を通して、神の摂理を見上げるところに意味があるということです。私たちが苦難について考えなければならないのは、私たちを苦しめる苦難そのものではなく、その苦難を通して私たちを取り扱われる神の御心は何かということです。何らかの苦難に会った時、その苦難そのものに目を向けるのではなく、その背後で働かれる神に目を向け、神様と出会うことが必要です。
 これまでも私たちは苦難に出会ったでしょう。家庭の混乱、仕事の失敗、人間関係の軋轢、経済的破綻等々を通して大きな痛みを患い、悩み、苦しんだ経験があるでしょう。これからも、苦難はやって来るでしょう。問題は起こるでしょう。苦難の中で、私たちは、自分を愛して、救いに選んでくださった神様の愛を信頼するしかありません。神様を信頼する信仰さえあれば、苦難の中で絶望して沈むのではなく、苦難の中にも恵みと守りを発見して、対処して行くことができます。
 神様は、すべての苦難を私たちの益のために用いられます。ローマ8:28。神様は、私たちに悟りを与えてくださいます。詩篇119:67,71。立ち返ることのなかった者を、苦難を通して神の御前に立ち返らせ、悔い改めさせ、霊的に目覚めさせてくださいます。そうなってこそ、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」と言えるのでしょう。十字架に苦しまれたイエス様が、私たちとともにいてくださいます。ヘブル2:18。




マルコ13:14 『荒らす憎むべきもの』が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば(読者はよく読み取るように。)ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。
13:15 屋上にいる者は降りてはいけません。家から何かを取り出そうとして中に入ってはいけません。
13:16 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。
13:17 だがその日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。
13:18 ただ、このことが冬に起こらないように祈りなさい。
13:19 その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。
13:20 そして、もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、主は、ご自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくしてくださったのです。
13:21 そのとき、あなたがたに、『そら、キリストがここにいる』とか、『ほら、あそこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。
13:22 にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。
13:23 だから、気をつけていなさい。わたしは、何もかも前もって話しました。



ローマ8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

Tコリント10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

ローマ12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

エペソ5:10 そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。
5:17 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。

詩篇119:67 苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。
119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

ヘブル2:18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

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