2019年1月27日「目をさましていなさい」マルコ13:24-37

序−近年様々な自然災害や異常気象、政治的混乱や社会不安、様々な紛争が増加しています。世の中どうなってしまうのだろうと多くの人々が思っています。私たちは、このような時代をどう受け止め、どのように生きればよいのでしょうか。終末とイエス様の再臨の預言から学びましょう。

T−新しい統治が始まる−24〜7
 イエス様が再び来られる時の前兆が記されています。24〜26節。天変地異の現象にばかり目がとらわれて、終末預言の理解が混乱します。そもそもこの話は、エルサレム神殿の石積みに驚いた弟子たちに対して、イエス様が神殿の破壊とエルサレムの滅亡を預言されたことの続きです。この箇所は旧約聖書の引用です。イザヤ13:10,34:4。バビロンとエドムの権威が崩壊し、新しい世界の秩序が形成されることを引用して、エルサレムの崩壊とともにイエス様の王権による新しい秩序を預言されたのです。
 最初に救い主が世に来られた時、家畜小屋にみどり子の姿で来られました。何の権力も栄光もありません。しかし、やがて来られる時は「偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来る」のです。ダニエル7:13。エルサレムの権力者たちは、なぜイエス様を嫌い、憎んだのですか。自分たちの権力が脅かされることを最も恐れたからです。どうして救い主を民は退けたのですか。自分たちの都合良い願いを叶えてくれるなら歓迎するけれども、悔い改めや敬虔な生き方を退けたからです。現代の人々も同じです。
 イエス様が行使される主権とは、何ですか。27節。地の果てから世界中から救いの民を集められるというのです。神様は、これまでは神の民とされたユダヤ人を中心に救いの業を進められて来ましたが、聖書の預言と警告を無視したユダヤ人を通した救いの歴史は新しい局面に入り、イエス様の十字架と復活による新しい統治が開始されるというのです。聖書の言う終末とは、自然の破壊ではなくて、人の罪による支配の終焉ということであり、新たな世界の始まりを意味しています。
 ですから、26節は、旧約聖書の預言を引用して、新しい統治が始まるとともに、新しい秩序の形成を示しています。その時、主にある選びの民は世界の隅々から集められ、新しい天と地になります。以前のものが、もはや過ぎ去ります。黙示録21:1〜4。終末は、裁きの面があるとともに、救いの完成でもあります。
 イエス様はすでに来られ十字架による救いを与え、やがてその救いを完成させるために再び来られます。私たちは、その間を生きていることになります。どう生きるのでしょうか。人は希望がないと生きて行けません。希望は生きる原動力となります。多くの人々が物質に希望を置いており、権力や世の栄光に希望を置いています。しかし、それらはやがて滅びます。取り去られます。31節。Tペテロ1:24〜25。イエス様の十字架による救い、福音だけは変わることがありません。
 
U−いつ来られるか分からない−28〜32
 やがて終末の裁き主として来られるとなれば、その時はいつかということが気になります。いちじくの例えから学びなさいと教えられています。28〜29節。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかるというのは、自然のことです。寒いこの季節でも、枯れたような木々に冬芽がちゃんと付いています。私たちは、その小さな冬芽を見ることで、春が来るのを知ることができます。そのように、主の来られることが近づいているのを知りなさいと言うのです。
 私たちは、イエスの初臨とイエスの再臨の間に生きています。御言葉は、すでに来られた救い主イエス様について詳しく教えているだけでなく、やがて来られるイエス様についても詳しく教えています。ヘブル9:28。すでに来られた救い主イエス様は、私たちの罪をその身に負って十字架にかかって死なれるために世に来られました。やがてイエス様は私たちの救いを完成するために再び来られます。
 御言葉に記されたように、イエス様は来られました。同様に御言葉に記されたように、イエス様は再び来なければならなりません。ところが、いつイエス様が再び来られるのか、いつその日が来るのか、誰も分からないというのです。32〜33節。季節の移り変わりのように明らかに主の再臨があると言いながら、すぐに次の瞬間には、イエス様は、正反対のことを言われました。それがいつかは誰も分からないというのです。どういうことなのでしょうか。
 今の時代にも、自然破壊や甚大な災害、多くの紛争や戦争、政治の衰退や社会の混乱があり、人々の精神や心も廃退しています。もう終末の前兆は十分です。終末の信仰とは、地球が終わるとか天変地異が起こって世が終わるというのではなく、闇が支配する世、肉と欲が支配する社会、罪に蝕まれた悲惨な人生が終わって、光があふれ、正義と公平がなされる社会を志向する信仰です。終末はまだ来ていないのではなく、今すでに終末に向かって進行中なのだということです。
 未来学という学問があります。過去や現在のデータに基づいて、未来社会のあり方を予測し、そのモデルを提示しようという学問です。各分野の学際的な協力によって行われます。予測は二つに大別されます。人口の増加と食料の不調和、資源の枯渇、公害や貧富の格差による闘争の激化という悲観論が1つです。もう1つは、物質文明の発達による工業化の世界で、資源管理や環境調整が進み、経済問題解消や貧富の差の軽減を説く楽観論です。しかし、現代は、未来予測不能な時代と言われています。
 未来予測不能な時代にあっても、研究によって未来を予測して、未来の変化に備え、対応しようとしています。聖書を通して、イエス様の再臨と終末を教えてられている私たちがすべきことは何でしょう。

V−備えて生きる−34〜37
 主の再臨について強調されていたことは、その日、その時がいつであるかは、だれも知らないということでした。32節。どうすればいいのでしょうか。イエス様は、例えをもって教えてくださいました。34〜36節。主人がしばらく旅に出かけます。その間、しもべたちに仕事を割り当て、責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけました。つまり、権限を付与し、管理を任せたということです。私たちは、このしもべたちです。自分の生活、自分の家族、自分の仕事、学びすべてにおいて、イエス様から権限を与えられ、管理を委ねられているという思いがありますか。
 この例えでも、35節の主人がいつ帰って来るか、わからないからということがポイントです。いつ帰って来るか分からないから、一晩中目をさましていなさいというのです。目をさましていなさいということばが、4回も繰り替えし、強調されています。もちろん、寝ずの番をするとか徹夜して仕事をするということを言っているわけではありません。目を覚ましているという原語には、注意を払い、慎重に積極的に行動する、警戒態勢を維持するという意味があります。
 並行記事のマタイ24:37〜39では、ノアの洪水の話が引用されています。人々がまったく洪水の警告を聞かないで勝手な生活をしている間に、洪水に飲み込まれてしまいました。Tテサロニケ5:2〜3では、盗人が来るように、人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかると言っています。引用のどちらも、霊的には寝ている状態です。いつ地上の生涯が終わるか分からないのに、それに備えないのでしょうか。つまり、終末に備えていない、準備がない生き方が問題だというのです。
 ですから、目をさましていなさいと繰り返されているのは、主人がいついつ帰ってもいいように準備をしていなさい、備えていなさいということです。終末に向かって進んでいるのだから、それに備えて生きなければならないと言っているのです。イエス様に会う備えを持って生きることが必要です。「平和だ。安全だ」と言って何の準備もなく、生活が流れていませんか。イエス様の再臨についてまったく考えもしないで、日常のことで頭いっぱいにしていませんか。今日の御言葉を聞かなければなりません。
 目を覚ましていなさいということは、34節に記録されているように、主人から委ねられた仕事を忠実に果たすことです。信仰生活を忠実に生きることです。神の民として、イエス様を証ししながら生きることです。世を悲観的に見ないでください。自分の責任と働きを過小評価しないでください。私たちは、神様の奥義の管理者です。管理者には忠実であることが要求されます。Tコリント4:1〜2。私たちは、未来がどうなるか心配する必要はありません。イエス様がいなければ、未来もありません。イエス様なしで、勝手に将来を肉的に考えることは間違っています。私たちは、今日と呼ばれる日に、御言葉に心を留めしながら、忠実に主のしもべとして生きる必要があります。
 初代教会の霊的な信仰と聖霊の働きを学ぶと、それは初代教会だけの特別な姿で、自分たちとは違うと考える人が多いです。初代教会の人々は、主の再臨を間近に考えて、備えて生きていました。それであのような敬虔な生き方となり、聖霊がダイナミックに働く教会となったのです。私たちも、すぐにでもイエス様に会う備えをしながら、忠実に主のしもべとして生きたいと願います。Uペテロ3:10〜11。



マルコ13:24 だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、
13:25 星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
13:26 そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
13:27 そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。
13:28 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。
13:29 そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
13:30 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
13:31 この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
13:32 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
13:33 気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。
13:34 それはちょうど、旅に立つ人が、出がけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなものです。
13:35 だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。
13:36 主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。
13:37 わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。」



黙示録21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
21:3 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

Tペテロ1:24 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
1:25 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。

ヘブル9:28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

Tテサロニケ5:2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
5:3 人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
5:4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
5:5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。
5:6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。

Tコリント4:1 こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。
4:2 この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。

Uペテロ3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
3:11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

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