2019年2月3日「機会を逸しないで」マルコ14:1-9

序−クリスチャンって、どういう人なのでしょうか。イエス様を救い主と信じた人は、どのように生きるのでしょうか。世界中福音が宣教されたところで記念とされると言われた人の信仰から学びましょう。

T−−1〜5
 まず、状況を把握しましょう。1〜2節を見ると、イエス様が捕らえられて十字架に付けられるまで、三日しかないことが分かります。祭司長、律法学者たちが、イエス様をだまして捕らえ、殺そうとしていました。イエス様たちがシモンという人の家で食事をしていると、そこに一人の女性が非常に高価なナルド油を持って来て、それが入っていたつぼを割り、イエス様の頭に注いだというのです。3節。「ナルドのつぼなれねど」と賛美歌にも歌われている話です。ナルドの香油は、インドのヒマラヤ地方で取れるオミナエシ科のスパイクナードの根から抽出される精油で、薬や化粧品として用いられ、埋葬の時にも使われました。
 これを見た人々のうち、何人かが怒っています。4〜5節。その純粋な香油が、非常に高価だったからです。高価な香油を無駄にしたと思ったからです。その価値は300デナリと瞬時に計算しています。それは、庶民の一年間の収入に相当する額です。ああ、高価な香油が勿体無い、何て愚かなことをするのだろう。人々は、憤慨して、女性を厳しく責めました。
 皆さんは、どう思いますか。イエス様の頭には、数滴垂らせばいいじゃないか。何も全部注がなくてもと思ったでしょうか。売れば、貧しい人に施しができたのにと言う人々の反応に同感したでしょうか。女性の行為を見ていた人々は、計算だけして判断し、勝手に施しにしたらいいのにと考え、無駄にしたと憤慨したのです。女性の気持ちなど全く考えていません。なぜそんなことをしたのと聞いてもいません。怒るのは当然と言わんばかりに憤慨しています。
 果たして、そう言う彼らは、勿体無い運動をしていたのでしょうか。彼らは、貧しい人のことを憤慨するほどに思っていたのでしょうか。施しを日ごろからしていたのでしょうか。貧しい人を助けるのに、施しで助けることができますが、それより先に精神的、信仰的な助けが必要です。精神的に自立していなければ、お金で助けても役に立たないことが多く、精神的に整えられて、心に火がつけば、貧しい中でも生きることができます。神を礼拝し、神を信頼することなしに、貧しさに打ち勝つことはできません。神を礼拝し、主に仕えることが、物質的にも豊かになる秘訣であるというのが、聖書の教える真理です。ピリピ4:11〜12。
 女性の行為に憤慨し、この人を責める人たちを見て、どう思いましたか。私たちはどうでしょう。人の言動について、自分のものさしや感覚だけで反応し、怒ったり、憤慨したりしていないでしょうか。こうするべきだと勝手に考えたりしていないでしょうか。その人の心情を想像してみるでしょうか。なぜそんなことを言うのか、どうしてあんなことをしたのか、考えてみるでしょうか。御言葉に照らして受けとめたり、主の御心を考えたりしているでしょうか。当然のごとく憤慨するのでしょうか。ヨナ4:9〜11。

U−機会をとらえて主に仕えた−6〜9
 イエス様の反応を見てみましょう。人々とは、まったく違います。まず、そのままにしておきなさい。困らせてはいけないと言われました。6節。そうです。彼らは、自分たちが憤慨するのは当然と思って、その女性を責めたのですが、その女性を困らせている、傷つけているとは思いません。イエス様は、ちゃんと分かってくださっておられます。人に理解されなくても、イエス様は私の心をご存知です。
 人々は、施しもしないで無駄にしたと女性の行為について怒っていたのですが、この女性がりっぱなことをしてくれたと評価してくださいました。6節。その理由を言っておられます。7節。イエス様が今しか一緒におられないからでした。この女性は、今しかできないことをしてくれたからです。そして、やんわりと、憤慨した彼らに対して、あなたがたはいつでも貧しい人たちに施しができるでしょうと言われました。そう言われた彼らは、憤慨して勝手なことを言ったことを恥ずかしく思ったでしょう。
 どうして今しかできないのでしょう。なぜ立派なことをしてくれたと言えるのでしょう8節。イエス様のからだに油を塗ってくれたことが、埋葬の用意となるからでした。当時、埋葬の時遺体にナルドの香油を塗ったそうです。実際に、イエス様が十字架にかけられた後、葬儀の手続きも行われないで埋葬されてしまうので、ナルドの女性の行為は、イエス様の埋葬の用意をしてくれたことになります。マルコ16:1〜2。
 驚くべきことです。この女性は、イエス様がすぐに殺されることを知っていたのでしょうか。イエス様は、弟子たちにエルサレムで権力者たちによって殺されることを言われたことがありました。知っていたかもいしれません。どちらにせよ、差し迫ったイエス様の葬儀の用意をするという立派なことをしてくれたのです。救い主イエス様の十字架を指し示していることになります。
 この箇所を通して教えられている今という時の重要性を覚えましょう。イエス様の十字架が差し迫っている中でしたことが、埋葬の準備となりました。この女性は、今しかできないから、精一杯できることしたのです。8節。この人は、主に仕えることができる機会が与えられた時、これが最後のチャンスと思い、最善を尽くして仕えました。この女性の姿は、主に仕えることができるのはこれが最後だとして生きた模範です。
 救われた人は、どのように生きるのでしょうか。私たちは、主に仕えることができる最後のチャンスという意識をもっているでしょうか。いつでも主に仕えることができる、主に仕える機会は多いと思っていると、機会があっても、機会を生かしません。仕えることに最善を尽くさず、先送りしてしまいます。今与えられた機会こそ、主に仕えることができるチャンスと思わなければ、できません。
 この女性の行為は、お金の問題でも施しの問題でもなく、信仰の問題、福音の問題でした。この人だけが十字架にかかるイエス様の埋葬の準備をしてくれたのです。ですから、イエス様は、「世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となる」と宣言してくださいました。9節。

V−贖いに感謝して−ヨハネ8:4〜11
 この女性自身の心は、どうだったのでしょう。この人は、どんな思いで香油をイエス様に注いだのでしょう。ルカ7:37〜38によれば、「罪深い女」であったと記されています。姦淫の現場で捕らえられた女ではないかと考えられています。ヨハネ8:4〜11。当時のそのような罪を犯した人は石打ちにされると規定されていました。ところが、イエス様によって助けられ、罪赦されて、新しい人生を歩み出した人でした。
 本来ならば、石に打たれて死ぬはずだった自分を救ってくれたイエス様、どうにかして機会があれば、その感謝をあらわしたいと思っていました。命を助けられ、罪を赦されたので、できる限りのことをイエス様にしたいと考えるのは当然でしょう。ルカ7:38には、「泣きながら」香油を塗ったと記されています。イエス様に香油を塗ることができるのが、どんなにか感謝で、うれしくて、感激の涙を流したのです。300デナリとは、奴隷一人の身代金に相当します。あたかも、自分を罪の奴隷から、死と滅びから贖い出してくれた代価として差し出したようです。
 イエス様は、私たちを罪の奴隷から滅びから救うために、私たちの贖いの代価として、十字架にかかってくださいました。Tテモテ2:6。イエス様を救い主と信じる者は、その十字架の血による贖い、罪の赦しを受けています。エペソ1:7。滅ぶべき命だったのに、天国への命を与えられました。どんなに感激すべきことでしょうか。罪の奴隷だったのに、罪赦されて、解放されました。どのようにして感謝をあらわせばいいのでしょうか。
 私たちのこれまでの歩みを振り返っても、神の恵みでないことがあるでしょうか。クリチャンは、どのような人でしょうか。滅ぶべき命が天国への命に変えられて、感激に生きる人です。罪の奴隷から解放されて、喜びにあふれる人です。神の子どもとして、造り変えられて行く人です。そういう救いの恵みを感謝して、神を賛美する人です。エペソ1:12。すべてのことにおいて主の栄光をあらわしながら生きる人です。すべてのものは私のものではなくて神のものとしてささげて生きる人です。
 この女性は、その感激と感謝をナルドの香油をイエス様にささげることであらわしたのです。私たちは、救われた感激と感謝をどのようにあらわすのでしょうか。主を礼拝して、賛美すること礼拝の生活はもちろんのこと、人生を通して、神の栄光をあらわすようにするでしょう。コロサイ3:16,Tコリント10:31。主に対するように人々に仕えるでしょう。コロサイ3:23。
 この人のささげたのは、高価なナルドの香油ではありません。そこにあらわされた信仰です。その信仰が記念となりました。私たちも、主にささげられる最高のものは、信仰です。人々に与えることのできる価値あるものは、信仰です。私たちが家族や友人、次世代に残せる最大のものは、信仰の遺産です。教会学校の働きや証の生活は大切な信仰の継承であり、遺産です。私たちの信仰に生きた証しこそ、最高に価値ある記念碑です。



マルコ14:1 さて、過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていたので、祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕らえ、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。
14:2 彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから」と話していた。
14:3 イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたとき、食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。
14:4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。
14:5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。
14:6 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。
14:7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
14:8 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。
14:9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」



ピリピ4:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。
4:12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

ヨナ4:9 すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。
4:10 主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。
4:11 まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」

マルコ16:1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
16:2そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。

ルカ7:37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏のつぼを持って来て、
7:38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。

ヨハネ8:4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
8:5モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
8:6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
8:7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
8:8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
8:10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
8:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕

Tテモテ2:6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。

エペソ1:7 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

コロサイ 3:16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

Tコリント10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。

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