2019年2月10日「まさか私ではないでしょう」マルコ14:10-21

序−この箇所は、有名な最後の晩餐でユダの裏切りが記されているところです。ユダはどうして裏切ったのか、何か別な意味があるのでは、なぜユダが弟子の中にいたのか等々議論百出ですが、そんな評論家ではなく、主の食事に招かれた一人となって、今日の箇所を学びましょう。

T−主の晩餐に招待されて−10〜16
 過越の食事をする日になりました。どこでするか弟子たちがイエス様に聞くと、その場所がもう用意してあると教えてくださいました。10~15節。水がめを運んでいる男の人について行きなさいというのです。当時は、水がめを運んでいるのはほとんどが女性でしたら、すぐにその人だと分かります。なぜ、どこの家だとか、はっきり教えてくれないのでしょうか。イエス様を捕まえて、殺そうとしている者たちに、最後の晩餐を邪魔されたくないからです。マルコ14:1。弟子の中にユダがいるからです。行って見ると、二階の広間に席が用意されていました。これは、屋上の間ということです。ビルの屋上を思い浮かべてください。大勢が一緒に食事をすることができます。使徒1:13。
 この時は、イエス様にとって、十字架の苦難と死を控えている最も苦しい時です。それでも、弟子たちと静かな過越の食事をしようとされました。16節。食事は、食べることだけでなく、関心と理解の場であり、関係を新たにする交わりの場です。初代教会の元となったのが、そのような家での食事の集まりでした。使徒2:46~47。教会はコミュニティーです。聖徒たちは、礼拝とともに、共に食事をすることで整えられます。聖徒の交わりがない人は、神の恵みから遠ざかります。サタンが、聖徒たちの交わりから引き離そうとしています。聖徒たちの交わりは非常に重要です。教会とは、建物ではなく、聖徒たちの集まりです。ギリシャ語では、教会をエクレシアと言いますが、元々は集まりを意味しました。
 過越とは、小羊を屠った血を門柱と鴨居に塗ったイスラエルの民が救われて、出エジプトでしたという出来事を記念する食事です。出12:21~24。イエス様の十字架による贖いの御業を預言するものでした。イエス様が、この過越の食事に弟子たちを招待してくださいました。14節。「わたしの客間」と言われて、ご自分がこの食事のホストであることを強調されておられます。私たちも、そこに招待されていると思ってみてください。

U−弟子たちへの愛−17〜19
 その食卓で、イエス様は衝撃的なことを言われました。17〜18節。「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります」と言うのです。弟子たちは驚き、一瞬沈黙が食卓をおおいました。これを聞いて、弟子たちは大混乱に陥ります。弟子たちの反応を見てみましょう。19節。弟子たちは、一人一人、代わる代わる、「まさか私ではないでしょう」と言ったのです。「まさか私ではないでしょう」という言葉は、どんな心理状態から出ていたのでしょう。裏切らないことに自信がないからでしょうか。裏切ってしまうかもということからでしょうか。とにかく、裏切るなら私でない他の弟子だと言っているのです。私たちも、そこにいるとしたら、どのように反応したでしょうか。
 おそらく、弟子たちは、食事をしながら、互いを疑いの目で見ていたのではないでしょうか。20節は、「わたしといっしょに鉢に浸している者」と言われているので、誰か分かるはずと思うかもしれませんが、大きなボールに皆一緒に浸していたので、分かりません。イエス様は、そう言って、はっきり言われないのです。弟子たちの誰をも安心させないのです。
 誰一人「私ではない」と断言していません。弟子たちも私たちも、主の恵みと愛をよく裏切ります。誰もが罪人です。その食卓は何の食事ですか。過越の食事です。食事をしながら、小羊が流した血によって、先祖たちが救われ、滅びと裁きを免れたことを覚えました。出12:21~24。イエス様こそ、まことの過越の小羊です。ヨハネ1:29。私たちを罪と滅びから救ってくださるのは、イエス様の十字架で流された血によるのです。Tペテロ1:18。まさか自分ではと自分を省み、罪を悔い改めて、主の前に出ることこそ、過越の食事にふさわしいのです。
 ヨハネ13:1を見てください。イエス様は、犠牲の十字架を前にして、弟子たちを深く愛されて、弟子たちとの過越の食事を用意されたというのです。過越の食事は、その愛を残すところなく示されたことになります。イエス様は、ご自分の死を見据えながら、弟子たちを最後まで愛されました。「ご自分のもの」とは、イエス様を信じて、ついて行く弟子のことです。ご自分を身代わりに犠牲にされるほどに私たちを愛して、私たちをご自分のものとしてくださいました。
 この愛が私たちに示されています。皆さんが、イエス様から受けようとしておられるのは何ですか。何か物質的な祝福ですか。健康の幸いですか。事が思い通りなることですか。人々に認められることですか。イエス様を信じている皆さん、イエス様の救いを求めておられる人は、ご自分のひとり子さえ惜しまずに過越の小羊として差し出された神様の愛を受けた人です。これより大きな愛があるでしょうか。ヨハネ3:16。
 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。Tヨハネ4:10。イエス様が過越の羊となられて、ご自分の民のために十字架に死んでくださいました。悔い改めて、イエス様を信じますか。なぜ生まれたのか、どう生きて行くのか分からない、人生が空しいと思う人、自分のために死んでくださったお方を覚えてください。十字架で身代わりに死なれるまで、あなたを愛された方を忘れないでください。

V−悔い改めの機会を与える主−10〜11,20〜21
 このイエス様の愛から、ユダのことも見なければなりません。20~21節を見てください。18節で、「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります」と言っていましたが、ここでも、一緒に鉢に浸している者だとあいまいなことを言っています。はっきりユダお前が裏切ると言って、追い出すこともできました。しかし、そうされなかった。なぜでしょう。イエス様は、ユダの悔い改めを最後まで願われたからです。イエス様は、ユダが罪を悔い改める機会を何度も与えられました。
 その後には、あいまいな言い方ではなく、はっきりとユダに示され、悔い改めを促されます。ヨハネ13:26。しかし、ユダは、最後まで、悔い改めず、立ち返りませんでした。それは、彼の中に、お金を愛する貪欲があったからでした。10~11節を見てください。ユダは、主をお金で売り渡していたのです。聖書は、お金を愛すること悪の根だと言い、欲がはらむと罪を生むと教えています。Tテモテ6:10,ヤコブ1:15。ユダは、この欲に捕らわれ、悔い改めることをしませんでした。
 「まさか私ではないでしょう」と弟子たちが言ったように、私たちも、ユダのことを他人事と見るのではなく、この機会に自分の信仰を省みましょう。天国には、主よ、主よと言う者ではなく、天の父の御心を行う者が入ると言っています。マタイ7:21。立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさいと言われています。Tコリント10:12。
 ユダを通して教えられる、省みるべき信仰とは、何でしょう。彼の信仰の特徴は、自分の考えでイエス様を信じていたということです。例えば、イエス様がエルサレムに来て王となれば、自分は財務大臣になると思い込んでいたでしょう。そのために、イエス様に失望したのです。イエス様を信じるというのは、自分の考え、自分の欲、自我が死んで、イエス様が働かれることです。多くの人々が、祝福を受けるだけを求めて、イエス様を信じます。事が思い通りにならなければ、ユダのように失望します。時には、私たちの信仰を素晴らしくしようと患難が訪れ、病に会い、試みに揺さぶられます。イエス様を信じていながら、自分の考えがいっぱいであれば、ユダのようになる危険があります。
 21節のような驚くべきことまで言われました。そこまで言って、ユダが悔い改める機会を与えられたのです。しかし、それでも、悔い改めませんでした。ユダは、イエス様を引き渡す機会をねらっていたからです。10〜11節。詩篇の詩人は何と言っていますか。自分の考えでつぶやくならば、神の御声を聞かなくなります。詩篇106:25。
 他の弟子たちは、過越の食事の準備をする時どうしましたか。勝手にしないで、イエス様の言われるように従った時、イエス様があらかじめ準備しておいて下さったことを経験しました。「イエスの言われたとおりであった」と強調されています。16節。他の弟子たちは、主の御言葉どおりに従う姿が、ユダとは違いました。ユダは、自分の考えや判断通りに行動しました。主が何と言われるか聞きませんでした。主の警告に耳を傾けませんでした。ユダのような信仰は、危険です。
 イエス様を信じることは、主の御心に聞き従うことです。今自分が考えていることは、主の御心だろうかと省み、主に聞くのです。自分の計画を推し進めても、人生は進み、仕事はできます。しかし、神のご意志とは関係なくなります。神の御心に従い、導きに委ねたなら、たとえ不可能に思えても、信頼します。主が導いて、準備しておられるからです。主の御言葉通り従ってみましょう。主の祝福が臨みます。箴言16:9。



マルコ14:10 ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。
14:11 彼らはこれを聞いて喜んで、金をやろうと約束した。そこでユダは、どうしたら、うまいぐあいにイエスを引き渡せるかと、ねらっていた。
14:12 種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越の小羊をほふる日に、弟子たちはイエスに言った。「過越の食事をなさるのに、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」
14:13 そこで、イエスは、弟子のうちふたりを送って、こう言われた。「都に入りなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい。
14:14 そして、その人が入って行く家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる』と言いなさい。
14:15 するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」
14:16 弟子たちが出かけて行って、都に入ると、まさしくイエスの言われたとおりであった。それで、彼らはそこで過越の食事の用意をした。
14:17 夕方になって、イエスは十二弟子といっしょにそこに来られた。
14:18 そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」
14:19 弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう」とかわるがわるイエスに言いだした。
14:20 イエスは言われた。「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに鉢に浸している者です。
14:21 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」



ヨハネ1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

Tペテロ1:18 ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

ヨハネ13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

Tヨハネ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

マタイ7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

詩篇106:25 自分たちの天幕でつぶやき、【主】の御声を聞かなかった。

箴言16:9 人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは【主】である

戻る