2019年2月17日「主の血による新しい契約」マルコ14:22-26

序−レオナルド・ダ・ビンチによる「最後の晩餐」という有名な絵があります。この絵自体について、様々な評論がなされ、諸説紛々ですが、それよりも重要なのは、最後の晩餐で何が行われたかということです。そこで何が行われたのか、その意味は何なのか学びましょう。

T−犠牲−
 弟子たちを愛されるその愛を余すことなく示されたのが、過越の食事だと言っています。ヨハネ13:1。食事をふるまうことが愛の表現ではありません。そこで、イエス様が示されたことが愛です。何を示してくださいましたか。ここでイエス様が行われたことが、有名な聖餐式です。22〜24節。聖餐式の意味を知るには、普通の食事の中でされたのではなく、過越の食事の中でされたということに目を留めなければなりません。過越の食事は、先祖たちがエジプトの奴隷から解放され、滅びから救われた出来事に基づいています。主がエジプトを打たれる時、民が小羊の血を家の門柱とかもいに塗ったその血によって、裁きを通りすぎました。出12:7〜8,22〜24。それが、過越の祭りの元です。
 イエス様ご自身が、この小羊となられました。Tペテロ1:18〜19。パンと杯で、ご自身が過越の小羊であることを示されたのです。過越の食卓のパンとぶどうの汁の入った杯を取って、ご自分の体と血を与えると言われました。自分の体と血を与えたということは、ご自分のすべてをご自分の命を与えられたということです。イエス様が私たちのために犠牲のいけにえとなられたのです。イザヤ53:5。取るに足りないと言われた弟子たちのために、私たちのために、主はご自身をささげられたのです。ローマ5:6〜8。不敬虔な者のために、罪人のために死んでくださったのです。それに値しない者のために犠牲となってくださったのです。
 聖餐式のパンと杯を見てください。そのパンがイエス様の体、その杯がイエス様の血をあらわしています。イエス様が自分のために死なれたことを信じなければ、救いはありません。イエス様が私の罪のために身代わりに十字架にかかってくださったということを信じれば、罪の赦しを受け、天国への命を与えられるのです。エペソ1:7。イエス様は、私のために犠牲、なだめの供え物となられるほどに私を愛してくださいました。Tヨハネ4:10。聖餐でパンと杯を受け取るたびに、私のために死んでくださったイエス様を思い出してください。ご自分の命までも与えて私を愛してくださった主の愛を確信しなければなりません。聖餐式に与るたびに、「わたしが受けるべき死と滅びを代わりに受けてくださった。私のために犠牲となられた」ことを思い出し、救いの恵みを感謝する機会となりますように願います。

U−契約−
 イエス様は、聖餐式を通して、弟子たちに新しい契約を宣言します。24節。「これはわたしの契約の血です」と言われました。マタイ26:28。契約の血とは何のことでしょう。契約って、何でしょう。旧約聖書には、二つの契約が記されています。古い契約と言われているものは、神様が出エジプトの時、モーセを通して民と間で結ばれたものです。出24:1~8。モーセが契約書を読むと、民は命じられたすべての御言葉を守ると答えました。そして、動物を犠牲としてささげ、その血を民に注いで契約としました。血を振り掛けるのは、罪を覆うということを意味しました。イエス様は、十字架に血を流され、私たちの罪を覆ってくださいました。Tペテロ4:8。
 最初の契約は、民の従順を前提としました。民が神の御言葉を守り行うという行為に基づく契約です。民が神様に従えば、祝福を受けます。しかし、民は、一方的に契約を破棄して、偶像に仕え、悪を行い、神様から離れて行きました。結果、神様の守りと祝福を失い、その国はアッシリヤ、バビロンに滅ぼされてしまいました。
 しかし、愛と忍耐に富んでおられる神様は、新しい契約を立ててくださいました。エレミヤ31:31〜34。新しい契約は、モーセを通して民と結んだ契約とは違うと強調されています。石版に刻むのではなく、心に刻むと言われています。驚くべき違いが記されています。何と、私たちのすべての罪を赦し、その罪を思い出さないと言われるのです。すごい!です。赦してくださるどころか、罪や咎を思い出さないというのです。人は、されたこと言われたことは、小さいことまでいつまでも覚えていて、憎み続け、怒り続けるのです。そんな姿は、神様に赦された者として恥ずかしいです。
 新しい契約は、私たちの行いや功績に基づいてはいません。ただ十字架上で流されたイエスの血を信じる信仰に基づいています。イエス様が私の罪と滅びの身代わりに十字架にかかって、血を流された、つまり私の犠牲となって死なれたことを信じることです。それで、イエス様の血による新しい契約、恵みの契約と言われます。新しい契約による驚くべき赦しの恵みを「罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」と表現しています。イザヤ1:18。十字架に血を流されたイエス様こそ、新しい契約の仲介者です。ヘブル9:14〜15。ですから、イエス様の血が私の身代わりだと信じる者は、その罪を赦されて、永遠にその罪は思い出されないのです。
 なぜ、この契約は、血の契約と言い、血が流されることを要求するのでしょうか。罪の結果は滅びであり、罪の裁きは、命を要求するからです。聖書は、命は血の中にあり、命の贖いをするのは血だと教えています。レビ17:11。罪は、私たちの心と体、人格まで破壊します。そして、人間関係、社会生活を破壊します。罪は、人を醜くし、歪めます。しかし、罪が文化を形成すると、罪悪感も消えます。たましいが死んだような状態です。血は、命の源、命をあらわしています。血が流されない罪の赦しはありません。ヘブル9:22。
 旧約時代は、動物の血が流されましたが、罪の赦しは一時的なもので完全ではありませんでした。根本的に心がきよめられることがありませんでした。そこで、神様は、罪の問題を解決しようと、ご自分のひとり子イエス様を世に遣わされ、過越の小羊として送られました。イエス様の十字架の血によって、その一度で罪を贖い、赦しを与えてくださいました。ヘブル9:12。イエス様の血には力があります。イエス様の血は、私たちの心を根本的に変化させて、神の子とさせてくれます。
 イエス様の血が私たちの心に入ると、傷ついた心が癒され、死んでいた魂が生き返ります。恵みがあふれます。血の契約は、イエス様が血をながされ、命をかけて私たちを救われた。だからこそ、私たちも救いの恵みに応答していのちをかけて契約を守りたいと願います。

V−記憶−Tコリント11:25〜26
 過越の祭りによって出エジプトの救いを思い出し、記念として守って来たように、イエス様の十字架による救いも、聖餐式を守ることで救いを覚え、記念とするように言われました。Tコリント11:25〜26, ルカ22:19〜20。イエス様の犠牲とそれによる罪の贖いを思い出し、覚えていなさいと言われました。他の訳では、記念とかrememberとなっています。血の契約を忘れないように、救われた恵みを記憶していなさい、罪赦され新しい命を生きていることを覚えているように、聖餐式を行いなさいと言い残されたのです。言わば、イエス様の遺言です。決意をもって守ろうとするはずです。ですから、初代教会は、毎週聖餐式を行っていたようです。
 聖餐式を受けても、恵みを受けているでしょうか。聖餐の意味を知らなければ、恵みになりません。パンを食べ、杯を飲むのは、覚えるためです。パンを食べながら、イエス様の裂かれた肉体を思い、杯を飲みながら、血を流されて十字架に死なれたことを覚えるのです。と言っても、感傷的になるのではありません。なぜイエス様が肉を裂かれ、血をながして死なれたのか、その意味を心に刻むのです。罪に死んでいた私を生かし、滅びに向かっていた私を天国へ入れるためにイエス様が苦しみ、死なれたのだと。
 荒野をさまよった出エジプト第一世代は、なぜ約束の地に入れなかったのでしょう。過越の救いと解放の恵みを覚えていなかったからです。それで、荒野の厳しい環境を見ては、文句と恨みしか出てきませんでした。ですから、神様は、「エジプトの地で奴隷であったこと、贖いだされたことを覚えていなさい、思い起こしなさい」と繰り返し命じられました。申命記15:15,24:18。私たちも、救われた恵み、イエス様の犠牲を忘れてしまうと救いの喜びが失い、信仰が萎えてしまいます。聖餐式は、イエス様が私のために肉を裂かれ血を流された十字架の恵みを覚える儀式です。感激がなければなりません。心から感謝があふれてくるものです。
 だから、「パンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」。Tコリント11:26。初代教会の聖徒たちは、聖餐を中断することなく、集まるたびに聖餐式を行いました。使徒2:42,46。そして、恵みを受けて、大胆にイエス様を証し、十字架の福音を伝えました。「イエス様があなたのために十字架にかかって死なれて、復活されました」と伝えました。聖餐式は、この福音の恵みを経験し、イエス様の救いを伝えることを決断する時です。
 その後イエス様は十字架にかけられるので、最初で最後の聖餐となります。25節。次はいつどこで。神の国で新しく飲む日です。弟子たちは希望をもって賛美しました。26節。弟子たちが一緒に受けたように、私たちも、共に感激と喜びと希望の聖餐に参加しましょう。Tコリント11:25〜26。



マルコ14:22 それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」
14:23 また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。
14:24 イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。
14:25 まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
14:26 そして、賛美の歌を歌ってから、みなでオリーブ山へ出かけて行った。



イザヤ53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

ローマ5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

ヨハネ15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

Tヨハネ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

エレミヤ31:31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──【主】の御告げ──
31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

イザヤ1:18 「さあ、来たれ。論じ合おう」と【主】は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

ヘブル9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
9:15 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。

レビ17:11 なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。

ヘブル9:22 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

ヘブル9:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

Tコリント11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

申命記15:15 あなたは、エジプトの地で奴隷であったあなたを、あなたの神、【主】が贖い出されたことを覚えていなさい。それゆえ、私は、きょう、この戒めをあなたに命じる。

申命記24:18 思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを。そしてあなたの神、【主】が、そこからあなたを贖い出されたことを。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。

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