2019年2月24日「ゲツセマネの祈り」マルコ14:27-42

序−人は、自分の考え通り生きようとします。しかし、現実には思い通りどころか、患難や問題が嵐のように訪れます。仕事の困難や圧迫、家族の問題、病気や生活の混乱等々が起こり、心配や不安にさいなまれ、絶望や落胆に沈み、鬱々とした心になります。私たちは、そのような時どうすればいいのか、いや普段からどのようにして信仰生活をして行くのか、イエス様のゲツセマネでの祈りから学びましょう。

T−誘惑に陥らないように、目をさまして−27〜29,31,37〜40
 まず、イエス様との対比として、私たちの他山の石として、弟子たちの姿を学ぶことにします。祈らない弟子たち、祈れない弟子たちの姿です。弟子たちに対して、イエス様は、弟子たちがイエス様を見捨てて、逃げてしまうだろうと言われました。27節。当然、真っ先にペテロが、力を込めて、「全部の者がつまずいても、私はつまずきません」と大言壮語します。29節。他の弟子たちも、次々に、「イエス様を知らないなどと言いません」と言い張りました。31節。
 ところが、そんな自信満々の弟子たち、どうしたのでしょう。34節。弟子たちは、主のために起きて、祈るようにと頼まれました。38節。どうしたでしょうか。眠っていて、祈らなかったというのです。繰り返し、祈っていてほしいと言われても、やっぱり祈らないで、眠っていました。37,40節。イエス様は、自信を持って断言していた弟子たちに対して、敵が来ても逃げるな、戦えなどと言われたわけでなく、祈ってほしいと頼んだのです。それでも、弟子たちは祈りませんでした。
 なぜ祈らなかったのでしょう。それは、弟子たちが眠かったからではなく、精神的に眠っていたからです。肉の力を信じる場合、自分の意志は強いと思っても、霊的には弱い状態です。すぐに誘惑に陥ってしまいます。38節。サタンに誘惑されて、祈らなくなるのです。自分の肉の力、自分の決意を信じていた彼らは、祈る必要を感じなかったからです。イエス様のためにも祈らないで寝ぼけていた弟子という印象ですが、私たちの姿でもあると告白しなければなりません。
 どうして祈れなかったのでしょう。弟子たちは、自信満々な言い方でしたが、実は、内心は不安と恐れでいっぱいでした。イエス様が打たれて、弟子たちは散り散りばらばらになると言われたらので、平気でいられません。力強く否定したものも、その裏返しでしょう。不安や恐れが生じていたにちがいありません。何よりも、いつもは自分たちを毅然として叱咤されるイエス様が、深く恐れもだえながら、祈っておられるのです。33節。悲しみのあまり死ぬほどだから、一緒にいて祈ってほしいと言われたのです。34節。
 そんなイエス様を見ていた弟子たちの恐れや不安はいやが上にも増し、心は鬱々として疲れ果て、眠り込んでしまったようです。ルカ22:45には、「彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた」とあります。私たちも、患難や問題で心配や不安が生じ、絶望や落胆に沈み込み、心は鬱々となってしまいます。問題は、彼らがそのような悲しみのあまり祈れなかったということです。
 祈るべき聖徒たちが、祈らないとどうなりますか。人生生きていれば、問題が起こります。仕事の問題、家庭の問題、学校の問題、健康の問題、結婚の問題などがしばしば起こります。それに対して、ある人は絶望し、空しくなるでしょう。また、ある人は、誰かのせいにしたり、何かのせいだと言い、人を恨み、傷つけ、神を恨みます。私たちには、祈りが必要です。どのような姿勢で信仰で祈るのでしょうか。

U−深く恐れもだえ、悲しみ−32〜36
 イエス様の祈りの様子を見ることができます。驚くべき姿です。その祈る姿に衝撃を受けます。32〜36節。祈り始めたら、深く恐れもだえ始められ、悲しみのあまり死ぬほどだ、一緒にいてほしいと言うのです。今までこんな姿を見せたことがありません。なぜでしょう。今人として十字架に臨もうとしておられるからです。私たちと同じ弱い存在である人として祈っておられるからです。イエス様は神の御子だから恐れはない、死にも勝てるはずだと思うのは、間違いです。イエス様は、私たちの身代わりになられたので、私たちと同じ弱い人となられました。
 私たちは、人生において、どんなことで恐れや不安に陥り、苦しみ、悩み、どんな重圧や重荷で心が沈み込みますか。仕事の重荷や失敗、家庭や学校の問題、病気ためにそうなるでしょう。イエス様は、世の罪を一身に背負う神の小羊としての苦しみと悩みです。弟子たちからも裏切られ、捨てられる悲しみと痛みです。私のためにもそうなられたと思えば、私たちの悲しみや痛みも和らぎ、重荷や苦しみも軽くなります。
 イエス様はどうされたのですか。だから、祈られました。イエス様は、十字架を前に、深く恐れもだえられ、心は悲しみのあまり潰れてしまいそうでした。イエス様の祈る姿は、弱さをさらけ出しています。人は、高慢で、自分の弱さや恐れを隠そうとします。ますます辛くなります。一人、沈み込みます。しかし、私たちの主は、弱さや恐れをあらわしています。一緒にいて、祈ってくれと弟子たちに頼んでいます。人が苦難の中にいる時は、温かい一言だけでも力になります。一緒に礼拝し、ともに交わり、御言葉を分かち合うことがいかに大切か教えてくださいました。
 弱さを知っているイエス様は、「もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、この杯をわたしから取りのけてください」と祈っています。35~36節。杯とは、十字架のことです。できるならこれから自分に臨む十字架を避けたい、苦しみを免れたいと祈り願っています。弱さや恐れを我慢しないで、わたしから取りのけてくださいと祈りましょう。イエス様は、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いました。ヘブル5:7。私たちも、叫びと涙とをもって祈り、願いましょう。
 イエス様は、そのような祈りを3度ささげられました。41節。苦しみもだえて、繰り返し切に祈られました。ルカ22:44。ついには、「汗が血のしずくのように地に落ちた」とあります。どれほどの祈りでしょうか。まるで恐れや苦しみによってしぼり出されるような祈りです。オリーブ山にあるゲツセマネとは、ヘブル語で油を搾るという意味です。イエス様の血の汗のしずくは、搾られたオリーブからしたたり落ちる油のようでした。
 仕事や家庭の問題で試みを受けます。重荷を負わされます。自分の力ではどうにもならず、恐れや不安に沈みます。どれほど苦しみや恐れに搾り出されて、必死に、熱心に祈らざるを得ないでしょうか。

V−みこころのままを−36,41
 そうした祈りの中で、イエス様は、「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と祈られるようになりました。36節。真実に1つしかない自分の命をもって神の御前に立って、決断をする時、「あなたのみこころのままをなさってください」と告白するしかありません。実にこの言葉は、イエス様が祈りに祈って搾り出された告白でした。「神のみこころのまま」これこそ、キリスト教史において最も共感をもって使われて来た表現の1つでしょう。長老教会などの改革主義神学の伝統にある教会でもよく用いられて来ました。
 現代でも、オランダの改革派系教会での結婚式の案内には、決まって「誰々と誰々が今週土曜日、神の御心によって結婚式あげます」と知らせるそうです。有名なビートルズのLet it beは、「放っておけ、なすがままに」とか訳されるのですが、歌詞の内容は救いがテーマになっており、まさに「神のみこころのままに」の意味です。マリヤが御使いから受胎告知を受けた時、「おことばどおりなりますように」と答えて箇所の英語も、Let it be〜です。その歌詞も聖書がもとにあったのでしょう。
 「主のみこころのままに」という告白は、信仰の最高の告白です。誰も神様の前では、自分の考え、思想、計画などどれも正当性を持つことができないからです。私たちの希望や努力も、最終的には神のみこころによって達成されるという信仰です。イエス様がゲッセマネの園で、苦しみと恐れに搾りに搾られて出た告白です。
 これは、父なる神に全面的に信頼し、自分を委ねることです。生涯をささげることです。このような祈りができるのは、イエス様の父なる神への信頼があったからです。「主のみこころのままに」と告白される前に、「父よ。あなたにおできにならないことはありません」と父なる神への信頼をあらわしています。36節。私たちは、すべてのことを見通すことはできません。でも神はすべてをご存知です。すべてをすることができます。ですから、神様を信頼して、委ね、従うのです。イザヤ55:8〜11。
 イエス様は、神の意思を受け入れ、その時まで受け入れられました。41〜42節。祈りに祈って決断されたイエス様は、「もう十分です。時が来ました」と言って立ち上がり、十字架へ進んで行かれたのです。マタイ26:46。信仰は、大言壮語することではありません。自分の弱さを知り、祈りに祈って力と導きを得ることです。後の弟子たちも、自分の弱さを認めることで大胆に証しができ、患難の中でも賛美し、祈ることができました。私たちも、問題の中でも祈りに祈って、主を信頼して、委ねて、立ち上がって、問題に取り組んで行きましょう。36節, ルカ1:38。


 
マルコ14:27 イエスは、弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる』と書いてありますから。
14:28 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」
14:29 すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」
14:30 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」
14:31 ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。
14:32 ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」
14:33 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。
14:34 そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」
14:35 それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
14:36 またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」
14:37 それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。
14:38 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
14:39 イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。
14:40 そして、また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである。彼らは、イエスにどう言ってよいか、わからなかった。
14:41 イエスは三度目に来て、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。
14:42 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」



ルカ22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。
22:45 イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。

ヘブル5:7 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。

ルカ1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

イザヤ55:8 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。──【主】の御告げ──
55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
55:10 雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。
55:11 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。

マタイ26:46 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。

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