2019年3月3日「裏切られて、見捨てられて」マルコ14:43〜52

序−人間関係の中で最も心に傷を負うことは、何でしょう。人から裏切られ、見捨てられたことではないでしょうか。とっても辛く悲しい経験であり、心に怒りや憎しみさえ生じるものです。今日の箇所は、イエス様が裏切られ、見捨てられた姿から、それをする人の罪と受けた者がどうして癒されるのか学び、私たちへの適用とします。

T−裏切る者−42〜46
 イエス様がゲツセマネの園で祈った後、「見なさい。わたしを裏切る者が近づきました」と言われている間に、十二弟子のひとりのユダが現れました。その後に、剣や棒を手にした群衆もいっしょでした。42〜43節。何と12弟子の一人が、イエス様を裏切り、エルサレムの権威筋にイエス様を売り渡して、捕縛する者たちを案内して来たのです。マルコ14:10〜11。捕縛する者は、誰がイエス様か分かりません。そのために前もって打ち合わせが行われていました。44〜46節。頬に口を付けるハグのような挨拶です。ハグされたイエス様は、簡単に捕まってしまいました。
 このような挨拶は、親しい友同士がする友情、尊敬や忠誠をあらわしたものです。それなのに、ユダは、裏切りの合図にしてしまいました。3年もの間寝食を共にして来た弟子の一人から裏切られたのです。なぜ、ユダが裏切ったのか、多くの人々の議論になっていますが、中には、イエス様の十字架への道のためあえてこの役を担った、裏切っていないと言います。でも、イエス様が繰り返し「裏切る者」と言われています。
 なぜ、裏切ったのでしょうか。お金の問題ということもあるでしょう。ヨハネ12:6。しかし、それよりも、勝手な期待外れのせいです。賢い彼はイスラエル王国の再興を期待し、自分の人生をイエス様にかけていました。もはやイエス様に付いて行っても、自分の目的を達成することは不可能だと判断し、期待したメシアではないと結論をくだし、裏切ったのです。
 知っている人から裏切られることは辛いことです。まして、親しい人から裏切られるのは、耐え難いことです。親しい人々から裏切られる、親友に裏切られる、級友や同僚から裏切られる、親から裏切られることは、とても耐えられない、苦しく悲しい、重く心に傷が残る体験です。友人なら当然こうしてくれるはずだ、親なら絶対にそんなことはしないはずだ、そういう期待や思いから外れる時、裏切られたと思います。ダビデ王は、親しい友から裏切られました。その時の思いを詩篇に記しています。詩篇41:9,55:12〜14。詩篇を読むと、親しい者から裏切れたダビデの驚きと衝撃、苦しみや痛み、憤りの思いがよく伝わって来ます。
 イエス様が、私たちのためにそれを体験されました。親しい友から裏切られたのです。信頼して、会計を任せた弟子から裏切られたのです。寝食を共にしていた家族のような者から裏切られたのです。

U−みなが見捨てて−47〜50
 この時、弟子たちの一人が剣を抜いて、大祭司のしもべに切りかかりました。47節。さすがはイエス様の弟子たち、一応イエス様を守ろうとしたようです。しかし、イエス様がそれを制して、主が逃げることをしないと分かると、弟子たちは、どうしたでしょうか。50節。「すると、みなが、イエスを見捨てて、逃げてしまった」のです。原文では、「みなが」は、文末に来ています。「すると、イエスを見捨てて、逃げてしまった。みなが!」という文になります。弟子たちみんなが、イエス様を見捨ててしまったことが強調されています。
 他の福音書の記事では、この一人とは、ペテロがしたと記録されていますが、ここで名前が記されていないのは、他の弟子たちも同じだということをあらわしています。他の弟子たちも、イエス様を守ろうとする思いはあったけれども、イエス様が逃げようとしないと分かると、すぐその気持ちは萎え、みんな恐れてイエス様を見捨てて、逃げてしまいました。なぜでしょう。弟子たちは、祈っていませんでした。霊的備えがなかったのです。肉の思いで一時熱が入っても、すぐに冷めてしまうのです。
 他の弟子たちもイエス様に対する期待は、ユダと同じでした。イエス様に対する勝手なメシア像を持っていた弟子たちには、イエス様が捕まえられるなんて、想像もできませんでした。捕まえられたイエス様の姿は、弟子たちの目にどう映ったのでしょう。権力の前に屈する無力な哀れな一人の男、「こうなったのは聖書のことばが実現するためで」と言われても、無力で無能な敗残者の声にしか聞こえなかったでしょう。
 弟子たちの期待は大きかったので、このようなイエス様の姿を見るのは辛かった、残念でならかったのです。もう、見捨てるしかなかったのです。人は、自分の期待に応えてくれないとその人を御捨ててしまいます。期待外れなら、見捨てざるを得ないのです。おそらく、私たちが人の期待に応えなかったから、見捨てられたのでしょう。反対に、私たちも当然と思われる自分の期待に相手が応えてくれないので、もう期待しない、相手にしないと見捨ててしまったのではないでしょうか。
 イエス様を知らないなどとは決して申しませんと言っていた弟子たちみんなが、イエスを見捨てました。しかし、このようにして、イエス様が弟子たちを守ってくださったのです。今までは、いつも弟子たちが一緒でした。うるさいくらいに一緒にいてくれた弟子たちが、みなイエス様を見捨て逃げてしまいました。イエス様は一人ぼっち、孤独です。
 ついには、イエス様は、神様からも見捨てられます。マタイ27:46。どれほど、辛いことだったでしょうか。御父からも捨てられて、十字架に死なれたのです。親しい者から見捨てられる、何と寂しく、悲しく、辛いことでしょう。いつまでも心に痛みが残るでしょう。最も深い孤独感を感じることでしょう。一人ぼっち、皆私を見捨てて、皆私を忘れている、茫漠たる悲哀を感じるものです。

V−裏切られ、見捨てられても−49,51〜52
 裏切られ、見捨てられたイエス様、まさにそれが救い主の姿です。聖書を見ると、そこには神様の慈愛と恵みに対する人々の裏切りと背信の歴史が記されています。アダムが禁断の実を食べて神様を裏切り、ノアの時代の人々が裏切り、ノアの子孫たちもバベルの塔を建てて裏切り、信仰の父と言われたアブラハムも神を裏切り、ヤコブは何度も裏切りました。イエス様の型とされたダビデ王も、神様を裏切りました。
 それでも、慈愛に富みたもう神様は、赦し、顧みてくださいました。繰り返し預言者を遣わし、悔い改めを願い、御言葉を伝えてくださいました。神の民は、慈愛の神を裏切り、御言葉に聞き従わず、神様に背を向け、偶像を拝んで神様を見捨てました。神様の方は、その民を見捨てることなく、最後には、ご自分の御子イエス様を遣わされました。Tヨハネ4:10。神を裏切り、神を捨てるという人の罪を担うために、自ら人々から裏切られ、見捨てられたのです。御言葉の実現するためでした。49節。
 人々から裏切られ、見捨てられたイエス様だからこそ、人から裏切られ、見捨てられた痛みや傷をかかえている者を癒して、救うことがおできになられます。ヘブル2:18。もし、心の内にある激しい憎しみや恨み、心に残る痛みや悲しみがあるなら、その叫びをイエス様にぶつけてください。イエス様はそんな私たちに言われます。「裏切られ、見捨てられて、痛みや傷を受けたあなたが、怒りや憎しみを持つのは当然だ。わたしが代わりに受け取ろう。あなたのその痛み、憎しみを、わたしに晴らしなさい」と。そして、私のために十字架にかかって下さいました。その主の声を聞き入れる時、私たちは、裏切られた、見捨てられたという怒りや憎しみから解放され、その時から心の傷の癒しが始まります。
 ここには、他の福音書にはない、一人の青年が登場しています。50〜51節。この青年は、この福音書の記者マルコだと言われています。弟子たちはよくマルコの母マリヤの家に集まっています。使徒12:12。最後の晩餐のもマルコの家でしょう。使徒1:12〜13。彼は、異変に気付き、ゲツセマネの園に寝巻きの亜麻布を羽織ったまま駆け付けました。捕らえられたイエス様に付いて行こうとしたが、自分も捕らえられそうになって、恐ろしくなり、走るに不便な亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げ出しました。
 マルコ自身も、イエス様を見捨ててしまったという心の痛みを抱えていました。私も弟子たちと同じだったと告白するため、恥ずかしい自分の姿を記しているでのす。自分がどんな人かということを知っている者は、誰かを当然のごとく責め、指差すことはできません。人を裏切り、人を見捨てる人の姿を見る時、私も同じ人でした。もし誰かを恨んでいるとしたら、怒りを持っているとしたら、主よあわれんでくださいと祈ります。
 私たちも、自分のうちに主を裏切り、見捨てた罪を見ます。人を裏切り、見捨てたことがあるでしょう。私の心の奥にも罪が沈んでいます。裏切られ、見捨てられたと思う心の傷、憎しみ、怒りがあります。イエス様の十字架にその思いを付けます。イエス様に泣きながら、訴え、祈ります。私を赦してください。私を癒してください。ヘブル2:18。



マルコ14:42 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」

マルコ14:43 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現れた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。
14:44 イエスを裏切る者は、彼らと前もって次のような合図を決めておいた。「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しっかりと引いて行くのだ。」
14:45 それで、彼はやって来るとすぐに、イエスに近寄って、「先生」と言って、口づけした。
14:46 すると人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
14:47 そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした。
14:48 イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。
14:49 わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」
14:50 すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。
14:51 ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕らえようとした。
14:52 すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。



Tペテロ2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。

イザヤ33:1 ああ。自分は踏みにじられなかったのに、人を踏みにじり、自分は裏切られなかったのに、人を裏切るあなたは。あなたが踏みにじることを終えるとき、あなたは踏みにじられ、あなたが裏切りをやめるとき、あなたは裏切られる。

詩篇41:9 私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。

詩篇55:12 まことに、私をそしる者が敵ではありません。それなら私は忍べたでしょう。私に向かって高ぶる者が私を憎む者ではありません。それなら私は、彼から身を隠したでしょう。
55:13 そうではなくて、おまえが。私の同輩、私の友、私の親友のおまえが。
55:14 私たちは、いっしょに仲良く語り合い、神の家に群れといっしょに歩いて行ったのに。

Tヨハネ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

ヘブル2:18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

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