2019年3月10日「イエス様は黙ったまま」マルコ14:53〜65

序−裁判員制度が2009年に始まりましたが、一般の人も裁判に携わる機会はほとんどありません。ドラマなどで裁判の場面を見ておられるでしょう。今朝の箇所は、イエス様の裁判の場面です。何か変です。まったく逆転が起きて行く裁判です。読む私たちも、傍聴席から裁判の当事者へと引き込まれて行きます。

T−偽証−53〜59,14:1
 捕まえられたイエス様は、大祭司の邸宅に連れて行かれ、そこにエルサレムの権力者たちが集まって来ました。53節。そこで、裁判が始まりました。集まった人々は、サンヘドリンと呼ばれた議会の議員たちでした。71人の祭司、長老、律法学者たちで構成され、ローマ帝国にも認められた、ユダヤの最高権力者機関でした。その議員たちが、イエス様を殺そうと決めていました。マルコ14:1。なぜでしょう。イエス様をねたんだからです。自分たちの権威と既得権を危うくすると恐れたからです。欲の罪です。
 ですから、この裁判は、はじめから不当なものでした。裁判は、証拠が出され、罪が認められて、罪状が決まるものです。はじめから死刑にすることを決めていた裁判なんて、不当です。それだけではありません。この裁判は、おかしいです。訴える側の議員たちが、検察官も裁判官も兼ねていました。被告を訴える証人は多く立てられました。それなのに、被告側は、弁護人も証人も誰もいません。イエス様だけです。権力を笠に着て勝手な振る舞いです。罪の姿です。
 罪のない方を訴えたのですから、証拠はありません。55節。そこで、多くの証人を立てました。56節。けれども、その証言は一致しませんでした。59節。なぜなら、証人たちは、みな偽証するように頼まれて、嘘の証言をしていたからです。56節。急ごしらえの嘘は、互いに合わなかったのです。イエス様は、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」とおっしゃったのに、「神殿をこわす」と言ったと偽証するのです。ヨハネ2:19。世で人々は平気で嘘を言います。人は、都合よく他人の言葉を変えて、批判し、責めています。これが、罪の性質です。マタイ15:18〜19。
 律法によれば、2人3人の証人が一致しなければ、罪を問うことはできません。偽りの証言を厳しく戒めていました。ところが、律法遵守を声高に言う彼らが、守ろうとしていません。偽証でイエス様を陥れ、死刑にしようとしていたのです。御言葉を自分勝手に都合よく用いるのです。よく知っているのに、御言葉に従わないのです。これも、罪の性質です。
 ところが、寄って集ってイエス様に不利な証言をしても、イエス様は、黙ったままで、何の文句も言われませんでした。61節。私たちなら、自分の不利なことを言われたなら、黙っていることができますか。

U−供述−60〜65
 しかし、一転して、イエス様は堂々と自ら供述することになります。61〜62節。イエス様は、これまでは不利な証言をされても、偽証されても、黙ったままでした。ところが、大祭司から「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか」つまり、「神の子、キリストか」と問われると、「わたしは、それです」とはっきり答えています。
 イエス様は、これまでキリスト(メシア)という言葉を使うと、人々が誤解するからか使っておられませんでしたが、キリストと言うならば、ご自分が訴えられることになる、不利になると分かっていながら、毅然として答えられました。それは、救い主として、人々の罪を負って十字架にかかられるためでした。
 喜んだ大祭司は、大げさなパフォーマンスをして、イエス様の罪状を決定してしまいます。62〜63節。その罪状は、「神をけがすこのことば」つまり、神を冒涜したと言うのです。イエス様はご自分について真実を言ったに過ぎません。そのように叫ぶ議員たち、権力者たちが、神の御名と御言葉を都合よく用いて、神を冒涜していました。彼らは、自分たち自身の信仰は素晴らしいと自分たちでは思っていたのです。何よりも神の御子を、ねたみ、殺そうとしていたのに、そんな自分たちの姿に気付きません。
 図に乗った者たちのある者たちは、言葉と暴力でイエス様をこれでもかと侮辱し、嘲笑するようになりました。65節。人格を否定する酷い仕打ちです。彼らは、そんなひどいことを言い、ひどいことをしていることをどれほど意識していたのでしょうか。イエス様の姿は、まさに、苦難のしもべの姿です。イザヤ53:3〜6。「人々からさげすまれ、のけ者にされ、悲しみの人でした。誰も尊ばなかった」のです。苦難のしもべのそのような姿こそ、人々の罪を担うものでした。私たちのために、侮辱と嘲りを受けてくださいました。イエス様は、ここでも、黙っておられます。Tペテロ2:23〜24。罵られたら罵り返したくなりますか。イエス様は、正しくさばかれる方にお任せになりました。
 イエス様が「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来る」と言われましたが、やがて裁きの座につかれます。Uコリント5:10。しかし、そこでイエス様は、私たちのために、弁護してくださるのです。ローマ8:34。裁いている彼らの罪の姿がますますあらわになり、イエス様の救い主の苦難の姿があらわになって来ます。彼らこそ裁かれるべき罪びとでした。だんだんと、彼ら自身が被告であることがあらわになって来ました。

V−黙秘−61
 そして、この裁判の場で、一際イエス様の姿がクローズアップされて来ます。61節前半。「黙ったままで、何もお答えにならなかった」というイエス様の姿です。「不利な証言をしていますが、これはどうなのですか」と言われても、黙ったままでした。60節。なぜ黙っておられたのでしょう。黙秘権行使なのでしょうか。黙秘権は、自分の不利になる供述をしたくない時に用いるものです。嘘を言うと後で偽証罪に問われるので、黙秘するわけです。イエス様は不利になるから黙秘しているわけではありません。
 「あなたは神の子、キリストですか」と聞かれた時には、そうですと答えています。不利な偽証に対して黙秘しておられたのです。61〜62節。イエス様は、不利なことを言われているのに、何も言っていません。なぜ、イエス様は偽証する者たちの嘘に対して、黙っておられるのですか。神の御心を優先されたからです。血の汗を流しながら祈られたのは、神の御心がなることでした。私たちを愛する最良の選択だったからです。私たちの罪を断罪するよりも、私たちの罪をおおうためでした。Tペテロ4:8。
 証人たちの偽証は、みな嘘偽りだったのですから、いくらでも論破することができます。無罪を証言できますが、自己弁護をしなかったのです。それで、黙っておられたのです。偽証する人々と議論するのを避けて、黙秘されておられました。ちょっとでも反論でもしようものなら、犬のように吠えて、食って掛かって来るでしょう。マタイ7:6。捏造し、事実をひん曲げて、口論して来るでしょう。
 逆に、沈黙によって彼らの嘘偽りをアピールしていたのです。彼らの悪と不正を告白していることになります。偽証や悪口に対しては、取り合わないことが一番の対抗なのです。私たちは、このようなイエス様から多くのことを学ぶことができます。それなのに、不利なことを言われっぱなしでは腹の虫が収まらない、悪く言われたままではプライドが傷つくなどと理由を付けて対抗し、自己弁護に努めることになると、どうなりますか。相手の思う壺です。悪口雑言を増長することになります。
 ある注解者は、このイエス様の黙秘をmajestic silence「威厳のある沈黙」とコメントしています。偽証に対しては反論せず、批判に応じて自己弁護をすることを静かに拒否したのです。ここにも、苦難のしもべの姿が成就されている言います。イザヤ53:7。まさしく「痛めつけられ、苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、口を開かない」その姿は、救い主の姿でした。
 今も、社会は、権力者たちが声高に自分の権勢を振り回し、既得権を持つ者が権益を維持しようと不正と腐敗を増長させています。私たちの周りでも、自分の有利なことばかり主張し、声の大きい者が争いで勝とうとする人々が多くいます。このような人々と対抗、口論することは無駄なことです。愚かなことです。
 イエス様は、サンヘドリン議員のような権力者の前だけで黙秘しておられただけでなく、心変わりした民たちの前でも黙っておられます。頑なな者たちを説得するために、徒労に終わることをするよりも、時が来れば、事が実現するのを待ち望まれたからです。イエス様は、弟子たちの前でも沈黙されていました。これから弟子たちが迫害や患難に出会う時にはどうすべきかを教えてくださったのです。イエス様の沈黙は、騒ぐばかりの世、不義と自己主張の世に対する適切な対応でした。
 そして、イエス様の沈黙は、神に集中するための沈黙でした。私たちが神に集中するためには、沈黙しなければなりません。神の御声を聞くために、沈黙する必要があります。イエス様は、ゲツセマネの園で祈りに祈って、御父の御旨に集中されたので、不当な裁判の中でも黙っておられました。祈り備えてこそ、委ねて沈黙できます。だからこそ、「わたしは、それです」という一言が闇の中に輝きました。虚勢と嘘で誇張された主張は不要です。自分を告白するのは、明確で淡白な一言だけです。



マルコ4:53 彼らがイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長、長老、律法学者たちがみな、集まって来た。
14:54 ペテロは、遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の庭の中まで入って行った。そして、役人たちといっしょにすわって、火にあたっていた。
14:55 さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった。
14:56 イエスに対する偽証をした者は多かったが、一致しなかったのである。
14:57 すると、数人が立ち上がって、イエスに対する偽証をして、次のように言った。
14:58 「私たちは、この人が『わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造ってみせる』と言うのを聞きました。」
14:59 しかし、この点でも証言は一致しなかった。
14:60 そこで大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出てイエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」
14:61 しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」
14:62 そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」
14:63 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。
14:64 あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。
14:65 そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ。「言い当ててみろ」などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。



ヨハネ2:19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」

イザヤ53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

Tペテロ2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

ローマ8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

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