2019年3月17日「お言葉を思い出し、泣いた」マルコ14:66〜72

序−人には弱さがあり、失敗もします。人には、その弱さを隠して強がる姿があります。また、失敗や弱さに打ちひしがれる姿もあります。しかし、イエス様は、福音によって弱さが変えられ、失敗したが用いられる弟子の姿を教えてくださいます。

T−私はつまずきません−マルコ14:27〜31
 まず、今日の箇所の予告編から見ましょう。マルコ14:27〜31。イエス様が、弟子たちがイエス様を見捨てて逃げてしまうと言います。27節。「つまずく」とは、試みや迫害の中で、自分に不利な状況の中で、忠実な信仰であることができずに、心が信仰から離れて罪を犯す状態をあらわしています。種まきの例えでは、岩地に落ちた種は、根が無いために、困難や迫害が起こるとすぐにつまずいてしまうと言います。マルコ4:17。
 すると、ペテロは、気分を悪くして、他の弟子が逃げても私だけは見捨てたりしないと主張します。29節。ペテロは、他の者がつまずいたとしても、私だけは決してつまずかないと豪語したのです。なぜ、こんな大口をたたくのでしょうか。自分は躓かない自信があるのに、他の弟子たちと一緒にするなという怒りです。イエス様に文句を言っています。
 ペテロは、あまりに自信が強くて、自分を過信して、人としての限界と弱さを理解していませんでした。まさか自分がイエス様を見捨てるなんて、想像もしませんでした。私たちは、どうですか。自分の考えや能力に自信を持っているでしょうか。それとも、弱くて、自信などないですか。
 イエス様は、自信満々のペテロがイエス様を知らないと3度否定すると予告されました。30節。予告を聞いたら、ますます憤慨して、たとえ死ななければならない状況だとしても、イエス様を知らないなどと決して言わないと語気を強めて言い放ちます。31節。
 確かに、世の中では、自信や自己ピーアールは大事です。しかし、私たちが信じるのは主の愛と御力を信じるのであって、肉の自分を信じるのではありません。信仰生活にうぬぼれや誇りは必要ありません。イエス様の十字架の犠牲が必要なほど、自分には罪や欲がある、自分は弱くて愚かであることを認識する必要があります。
 すでに、他の弟子たちと比較するところに、ペテロの弱さがあらわれています。29節。自分だけの熱心や決意を言えばいいのに、どうして他の弟子たちを引き合いに出して、比較するのでしょうか。比較意識は、自分の弱さを隠すための表現です。他人に対して攻撃的な人がいます。いらいらして不満を持っている人がいます。些細なことで人を責めたり、すぐに人を否定したりする人がいます。自分が弱くて自信がないから、周囲の人をおとしめることで、自分を引き上げ強くしようとするのです。
 人から認められたい、自分を大きく見せたいという虚栄心の強い自意識の中では、他人との比較の中でしか自分を認識できず、自分の弱さやコンプレックスを認めることができないのです。立っていると思う者は、倒れないように気をつけなければなりません。Tコリント10:12。自信過剰のペテロはどうなりましたか。

U−その人を知りません−66〜71
 数時間後、ペテロの自信過剰がくずれる瞬間がやって来ます。イエス様のために死ぬどころか、イエス様を知っていることすら否定するのです。ペテロは、大祭司の邸宅の庭にやって来て、中の様子を伺っていました。そこで、イエス様の仲間だと詰問されても、否定しました。ペテロは、イエス様の予告通り、鶏が2度鳴く前に3度イエス様を知らないと否定しました。66〜71節。その恥ずかしい姿を記しているのは、批判するためではありません。これ読む者、私たちが、自分はどういう存在であるか、主がどのようにしてくださったかを知るために記されているのです。
 3度もイエス様を知らないと否定しています。イエス様と一緒にいた、イエス様の仲間だと言われても、知らないと否定します。ペテロもその庭で大祭司の女中やしもべたちから尋問を受けていたのです。恐れて、知らないと偽証しました。現代の聖徒たちも、学校や職場、家庭において、周りの人々から、質問を受けます。ある時には、クリスチャンであることが知られないようにします。クリスチャンであることを隠したまま過ごします。私たちも、現代版ペテロになるのです。
 ペテロは、自分のことは自分がよく知っていると思っていました。主を否定するような弱い者ではないと確信していました。しかし、これまで自分を支えて来た自信が崩れ始めます。ペテロの失敗は突然ではありません。イエス様のおことばを受け入れることができず、イエス様の勧めを無視した時から崩れ始まっています。誘惑に陥らないように祈っていなさいと言われても、祈りませんでした。37〜38節。心は燃えていても、肉体は弱いのですというおことばを無視しました。今日のクリスチャンも、この点で失敗します。イエス様を信じていると言わないことが失敗のはじまりです。最初に「私はクリスチャンです」と言えば、人々は私たちに期待し、私たちも信仰の人らしい責任を持って行動するものです。
 正しい信仰が形成されるには、ペテロのように自分がくずれるような経験も必要です。自分の能力の限界や性格の問題、罪の性質などで認めざるをえないことに直面した時、自分が崩れます。でも、イエス様は、このために、ペテロのために、信仰がなくならないように祈っていてくださいました。ルカ22:32。そして、気付いたのです。3度否定して鶏が鳴いた時、イエス様の予告をフラッシュバックのように思い出しました。72節。ルカ22:61には、イエス様と目が合ったと言います。そのとき、彼は激しく泣きました。ルカ22:62。私たちの自我が崩れた瞬間でもあります。
 そのような時こそ、御言葉を握ることが必要です。主の眼差しに込められた愛と希望を悟るのです。いくら教えても気付かなかったペテロに対して、反発するペテロに対して繰り返し教えられたからこそ、たとえその時には気付かなくても、自我が崩れる時、御言葉が思い出されたのです。絶望するしかない時に思い出される御言葉が1つもないとしたら、どうでしょう。ですから、御言葉は繰り返し学ぶ必要があります。受け止められなくても御言葉を繰り返し教えることが大切です。御言葉は、恵みの手段なので、決定的な瞬間に命の御言葉として働きます。
 皆さんは、自分の弱さを認めていますか。イエス様も人としても弱さ、限界を知りました。だからこそ、祈りに祈り、神様の御手にご自分を委ねました。34〜36節。私たちのような弱い存在のために、ご自身を捨て、十字架にかかられたイエス様を信じてください。

V−あなたがご存じです−72, ヨハネ21:15〜17
 ペテロの号泣は、色々な意味があります。72節。自分に失望して泣き、イエス様に対して申し分けなくて泣いて、そして、悔い改めて泣きました。そのために、失敗は失敗に終わりません。挫折は挫折で終わりません。ここからペテロを変えられ、用いられます。私たちの失敗は、頑なな自分が死んで、私の中に福音の恵みが臨む機会となります。私たちの挫折は、私たちの欲が死んで、神のビジョンが臨む機会となります。
 この話は、ペテロの涙で終わりませんでした。後日談、エピローグがあります。それも予告されていました。28節。ガリラヤで再起しようということです。イエス様は、復活後ガリラヤ湖で弟子たちと会います。ガリラヤは、弟子たちがイエス様と苦楽をともにした所です。弟子たちがイエス様に従った所です。献身の思い出の場所です。
 イエス様は、そこでペテロと印象的な対話をされます。ヨハネ21:15〜17。イエス様は、ペテロに「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか」と聞いています。もうペテロは、「他の弟子たちより」とは言いません。「私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えています。イエス様は、3度繰り返し「わたしを愛しますか」と聞いており、ペテロも3度「私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えています。イエス様が自分を一番知っておられるという信仰告白です。
 イエス様は、ペテロの信仰告白を受けて、ペテロに3度「わたしの羊を飼いなさい」命じられました。こうして、ペテロは、弟子として完全に回復されました。イエス様は、失敗したペテロを再び立ち上がらせてくださいました。ですから、ペテロのイエス様を3度否むという悲劇的な事件は、失敗と挫折で終わりませんでした。変えられたペテロは、後に初代教会の重鎮として用いられ、牢獄にも入り、最後には殉教しました。
 イエス様は、この事件を通して、自分の考えと力で何かができるという自信を徹底的に砕かれました。崩れた自我がイエス様の福音によって再び立てられ、主の力で生きる弟子が造られました。肉の自分が崩れることは耐え難い痛みです。しかし、崩れて、号泣した後、神に頼り、神の御旨のまま生きる者へと変えられます。鶏の声を聞いた瞬間、ペテロは自分がどれほど弱いか悟りました。私たちも、自分の自信が崩れるような出来事に出会うでしょう。そこから、私たちも弟子たちのように変えられ、回復されます。弱さのために失敗して挫折した時、このような私のために主は苦しまれたと感謝し、主の犠牲を覚える私たちは、弟子たちが変えられたように変えられ、用いられるのです。



マルコ14:66 ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、
14:67 ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」
14:68 しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない」と言って、出口のほうへと出て行った。
14:69 すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です」と言いだした。
14:70 しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」
14:71 しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません」と言った。
14:72 するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。


マルコ14:27 イエスは、弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる』と書いてありますから。
14:28 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」
14:29 すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」
14:30 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」
14:31 ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。

マルコ4:16 同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、
4:17 根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。

Tコリント10:12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。

ルカ22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。

ルカ22:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。

ヨハネ21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

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