2019年3月24日「ピラトのもとに苦しみを受け」マルコ15:1〜15

序−「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と使徒信条にあるのですが、イエス様を十字架にかけようとしたのは、議会であり、そそのかされた群衆なのに、むしろピラトは釈放しようとしたのにと人々が疑問を持っています。総督ピラトによるイエス様の裁判の箇所を、ピラトにフォーカスをあてて学びましょう。

T−群衆を恐れた−3〜4,10〜15
 信条にその名が記されてピラトは、ローマ皇帝から派遣されたユダヤ総督で、赴任したばかりでイエス様の裁判をすることになったようです。ローマ帝国の支配下で、サンヘドリン議会には、死刑にする権限がありませんでした。そこでピラトに訴えたのです。ピラトは、尋問をはじめてすぐにイエス様が無罪であり、祭司長たちが妬みからイエス様を罪に定めようとしていることが分かりました。10節。それなのに、なぜすぐに釈放しなかったのでしょう。どうして、死刑を宣告してしまったのでしょう。
 人を恐れたからです。赴任したばかりの総督としては、暴動を恐れたのです。祭司長たちの訴える様を見て、無罪を言い渡すのは無理だと思いました。3〜4節。そこで、過越しの祭りの時に犯罪者を一人赦免する特赦を利用して群衆に選択させようとしたのです。当然民に人気のあったイエス様を選ぶだろうと思いました。ところが、バラバという囚人を選択したのです。11節。繰り返し問うと、群衆は、「十字架につけろ」と叫ぶのです。13節。十字架だなんて、この人がどんな悪いことをしたのか、無罪ではないかと言っても、群衆は、「ますます激しく」十字架につけろと叫びました。12~14節。群衆を恐れたピラトは、ついに十字架刑を決定してしまいました。15節。
 群集心理、集団心理というものは、不安定で変化しやすいものです。時には、犯罪性や凶暴性を持つ危険性をはらんでいます。イエス様がエルサレムに来られた時にはホサナと歓迎していたのに、今は祭司長たちに扇動されて、十字架につけろと叫ぶに至りました。群集心理なる用語が一般化したのが、フランスの社会心理学者ル・ボンの「群集心理」です。人は、群れの中で悪を行ってしまいます。一人であればしないのに、群れの中ではしてしまうのです。群れの中では、悪いことだという意識が薄らぎ、みんな一緒だということで良心が薄れるのです。悪口や悪ふざけがイジメとなっていることに気づきません。自分が持っていた不満や鬱積した思いを群衆に紛れて、関係のないことにぶつけます。まさに、ユダヤの権力者やローマ帝国の圧制への不満や苦しみが、何の関係もないイエス様に向けられ、十字架につけろという叫びになったのです。
 ですから、群れの中では、誰しも群衆になり得るのです。売り場に静かに並んでいる客は群衆にはなりませんが、混乱したバーゲンセールの売り場では危険な群衆と化す可能性があります。人は、自分の不満や鬱積した思いを関係のない人にぶつけ、群れの中で悪口や中傷を言います。ですから、ここで叫んでいる群衆を関係ないと片付けることはできません。ひょっとしたら、叫んでいる群衆の中に自分の顔もあるかもしれないのです。イエス様は、私たち一人一人の名前を呼んでくださいます。ヨハネ10:3。群衆の中から出て、イエス様と個人的に会ってください。マタイ11:28。
 ピラトは、群衆を恐れたために、無実の人を十字架にするという罪を犯しました。私たちも、生活や仕事の現場で人を恐れると判断を誤り、過ちを犯してしまいます。人を恐れるとわなにかかりますが、主に信頼する者は守られます。箴言29:25。

U−権勢欲と無責任−ヨハネ19:10,12, マタイ27:24〜25
 ピラトが群衆を恐れたと言っても、群衆そのものを恐れたわけではありません。群衆が暴動を起こして、自分が罷免されることを恐れたのです。群集心理に陥った群衆は、暴動を起こす危険が大きくなります。任地の様子がまだよく分からない赴任早々であれば、余計に恐れたわけです。総督という自分の社会的地位を守ることに一番神経を使っていたピラトは、保身のためにイエス様を犠牲にしたのです。
 人が自分の人生の安全や地位の保障を優先するためには、他のものを犠牲にし、自分本位になるものです。ピラトは、群衆のきげんをとろうとして、イエス様をむち打って十字架につけるように引き渡したと言うのです。15節。大衆迎合、ポピュリズムの姿です。権勢欲の政治家の姿です。
 ピラトは、自分の権威を振り回していました。尋問の時、イエス様に対して「私にはあなたを釈放する権威と十字架につける権威があるのだぞ」と権威をひけらかしています。ヨハネ19:10。しかし、群衆の方が一枚上手でした。自分をユダヤの王だと言っているこの人を釈放したら、カイザルにそむくことだと叫ぶのです。ヨハネ19:12。地位を守り、権勢を振るうことに汲々としているピラトの弱点をついています。カイザルにそむくと言われれば、地位は取り上げられ、へたすれば粛清されるでしょう。
 権威や地位には、責任が伴うものです。権勢や出世ばかり求めて、責任を果たすことを忘れてはなりません。ところが、どうでしょう。地位を守り、権勢を振るうことをしていたピラトは、責任を果たそうとしていません。為政者として正しい判断をし、裁判権を持つ者として、正しい判決をしなければなりません。群衆を恐れて、不正な判決をしました。
 マタイ27:24を見ると、ピラトは、水で手を洗って、「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい」と言っています。しかし、こんなことをして責任がないと言っても、責任はなくなりません。十字架の判決をくだしたのは、ピラトだからです。私たちにも、社会的地位だけでなく、親としての責任、学生としての責任、職場での責任等もあります。神様から管理を委ねられたものとして、忠実に責任を果たしたいものです。Tコリント4:2。
 ピラトの無責任発言に対して、何と群衆は、「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」と答えています。マタイ27:25。これもまた、無責任な答えです。群衆は、今自分たちが何を言っているか分かっていません。その罪のために滅びるしかありません。命は命で贖うので、自分の救いのために自分の命を投げ出すことはできません。
 血とは、命の象徴です。イエス様が、私たちのために十字架にかかられ、私たちのために血を流されました。イエス様が人々の罪の赦しのために血の責任を取ってくださいました。エペソ1:7。イエス様の血によって、信じる者が罪なしとされて、滅びから解放されました。

V−良心の声を聞かず、真理も聞かず−マタイ27:19, ヨハネ18:37〜38
 イエス様に死刑を宣告したのは、良心に従わなかったからです。十字架刑を要求した祭司長たち、群衆に比べたら、ピラトは良心のあるように見られます。確かに「あの人がどんな悪い事をしたというのか」と言っています。14節。しかし、群衆を恐れて、無慈悲にもイエス様を十字架刑に決めてしまいました。人には良心があります。それに従うのか、捨てるのかでは、その結果が大きく違って来ます。良心を捨てれば、ひどいことになります。ピラトは、イエス様に罪がないこと、ユダヤ人が訴えて来たのは、ねたみによると分かっていました。10節。そういう良心があるのに、良心の声を聞いても、それに従って正しい判決を下すことができませんでした。私たちにも、神様が信仰による良心を与えてくださいました。良心の声が聞こえてきます。
 良心の声は、何度もあります。自分の内からばかりではありません。ピラトにも、本人以外から良心の声が聞こえて来ました。マタイ27:19を見てみましょう。裁判中のピラトのもとへ妻から伝言がありました。「あの人のことで苦しいめに会う夢を見たから、あの正しい人にはかかわり合わないでください」というのです。妻は、イエス様を正しい人だと言っています。つまり、正しい判決をして、裁きを受けることがないようにしてくれというのです。それでも、群衆の声に負けて、イエス様を鞭打って、十字架に引き渡してしまいました。15節。ピラトは、良心の声を無視しました。
 私たちは、内なる良心の声を聞いているでしょうか。良心の忠告を聞いているでしょうか。聖霊の内なる声が聞こえても、立ち返らなければ、間違った判断をすることになり、酷い結果を招くことになります。Tテモテ1:19。なぜ、人は罪を犯し、過ちを選択してしまうのでしょう。聞くべき良心の声を聞かないで、聞くべきでない誘惑の声を聞くからです。
 そして、イエス様が「真理のあかしをするために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います」と言うと、ピラトは「真理とは何ですか」と言いました。ヨハネ18:37〜38。答えを期待しているのではなく、「真理なんてあるものか」と言っているのです。何と、ピラトは、イエス様から福音を聞くチャンスがありながら、聞きませんでした。福音を聞いていたら、どんなに人生が変わっていたことか。
やがて、総督になって10年後、ピラトは、暴動と思って大勢のサマリヤ人を虐殺してしまい、責任を問われてローマに召喚されて、自殺することになります。イエス様が、救いの御言葉であり真理です。ヨハネ14:6。イエス・キリストが世に来られて、私たちの身代わりに十字架にかかってくださいました。信じる者には、罪の赦しと永遠の命が与えられます。ヨハネ3:16。真理に属する者となって、イエス様の御声に聞き従うことを願います。


マルコ15:1 夜が明けるとすぐに、祭司長たちをはじめ、長老、律法学者たちと、全議会とは協議をこらしたすえ、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した。
15:2 ピラトはイエスに尋ねた。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」イエスは答えて言われた。「そのとおりです。」
15:3 そこで、祭司長たちはイエスをきびしく訴えた。
15:4 ピラトはもう一度イエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているのです。」
15:5 それでも、イエスは何もお答えにならなかった。それにはピラトも驚いた。
15:6 ところでピラトは、その祭りには、人々の願う囚人をひとりだけ赦免するのを例としていた。
15:7 たまたま、バラバという者がいて、暴動のとき人殺しをした暴徒たちといっしょに牢に入っていた。
15:8 それで、群衆は進んで行って、いつものようにしてもらうことを、ピラトに要求し始めた。
15:9 そこでピラトは、彼らに答えて、「このユダヤ人の王を釈放してくれというのか」と言った。
15:10 ピラトは、祭司長たちが、ねたみからイエスを引き渡したことに、気づいていたからである。
15:11 しかし、祭司長たちは群衆を扇動して、むしろバラバを釈放してもらいたいと言わせた。
15:12 そこで、ピラトはもう一度答えて、「ではいったい、あなたがたがユダヤ人の王と呼んでいるあの人を、私にどうせよというのか」と言った。
15:13 すると彼らはまたも「十字架につけろ」と叫んだ。
15:14 だが、ピラトは彼らに、「あの人がどんな悪い事をしたというのか」と言った。しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ」と叫んだ。
15:15 それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。


箴言29:25 人を恐れるとわなにかかる。しかし【主】に信頼する者は守られる。

ヨハネ19:10 そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」
19:12 こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」

マタイ27:24 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」
27:25 すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」

エペソ1:7 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

マタイ27:19 また、ピラトが裁判の席に着いていたとき、彼の妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しいめに会いましたから。」

ヨハネ18:37 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」
18:38 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

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