2019年3月31日「むりやり十字架を負わせられ」マルコ15:16〜25

序−ビアドロローサ、悲しみの道と言われる道をイエス様の十字架を背負って刑場まで共にした一人の人物がいます。どんな思いをして、どんな導きを受けたのか、その人生を通して、イエス様の苦難と救いを学びます。

T−ビアドロローサ、悲しみの道−22,16〜20,21
 ピラトの官邸から刑場のゴルゴダの丘まで約1.5kmの道をビアドロローサ、悲しみの道と言います。22節。当時十字架刑にされる囚人は、重い十字架を背負わせられて刑場まで運ばなければなりませんでした。兵士たちから侮辱と嘲りと暴力を受けました。16〜20節。鞭打たれた背中の肉が裂け、骨が見えていた、いばらの冠をかぶせられ、すさまじい苦痛でした。精神的にも肉体的にもずたずたの状態で、ビアドロローサを刑場まで歩まれたのです。
 もうイエス様には、重い十字架を背負って歩く体力が残っていませんでした。ですから、何度も倒れては、打たれて立たせられを繰り返されました。そこで、兵士たちは、沿道で見物をしている一人の男に重い十字架を背負わせました。21節。男は、抵抗したのでしょうが、むりやり十字架を背負わされました。「むりやり」ということが強調されています。
 クレネ人シモンという人です。クレネとは、エジプトの西にあった都市で、ギリシャ文化が栄え、ユダヤ人も大勢住んでいた所です。現在のリビヤのキレナイカ地方は、この名に由来します。この人は、過越しの祭りを守るために、遠いクレネからエルサレムに来ていて、イエス様のビアドロローサ、悲しみの道を見物していました。その時突然、十字架を背負わせられたシモン、何がなんだか分からないまま、イエス様の後ろから重い十字架を背負って歩きました。自分の体も服も血だらけになりました。沿道の人々から嘲りや侮辱が浴びせられます。
 なぜ私なのか、他にも大勢いるじゃないか。どうして遠くから来た私に、背負わすのか。なぜ私だけをこんな目に遭わすのか、理不尽だと心で叫んだことでしょう。こんな惨め姿になるなんて、礼拝をしに来た私がどうして辱めを受けなければならないのだ、なんて運が悪いのだと嘆きながら重い十字架を背負い、悲しみの道を歩んだことでしょう。
 この時のシモンに私たちは共感するのです。誰でもそんな目に遭うからです。避けたい責任や困難を負わされることがあります。望まないことを担わなければならないこともあります。私たちも、シモンと同じように、どうして私にこんなことが起こるのか、私をこんな目に合わせてひどい、こんな惨めな思い耐えられないなどと思うことに出くわすのです。そんな時、私たちも悲しみの道を歩むのでしょうか。しかし、ここで、シモンは苦難のイエス様に会ったのです。

U−苦難のイエス様に出会って−
 シモンはただの見物人でした。せいぜいイエス様の悲惨な姿に同情し、涙するくらいでした。しかし、一瞬にしてその十字架を背負って、悲しみの道を同行する者となってしまいました。はじめは、ローマ兵を恨み、自分の境遇を憂いながら歩いていましたが、肉が裂け、血のしたたるイエス様の背中を見ながら、群衆の罵りや嘲りの声とイエス様の苦しい息遣いを聞いて歩いていると、不思議な気持ちになりました。
 どう見ても、十字架刑に会うような悪人には見えない、なぜ人々はこの人に罵声を浴びせるのだろう。何の罪もないようなのにどうして十字架にかけられるのだろうか。この人は人々に対して恨みつらみを抱いていないようだ、それどころか群衆の恨みや鬱積した叫びを自ら受けているようだと感じて来たのです。
 刑場であるゴルゴダの丘に着いた後の様子を見ても、ますますその思いを深まります。22〜25節。抵抗もしないで、兵士によって手足に大きな釘を打たれて、十字架につけられる姿を見ました。鎮痛剤である没薬入りぶどう酒を出されても飲まないのです。自分の着物を剥がされても、静かにしています。この人は苦しみを自ら進んで受けているのだ。どうして。
 そして、イエス様の祈りの言葉を聞きました。ルカ23:34。自分を十字架にかける者たちのために、「彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈るなんて、一体この方は何者なのか。自分を苦しめる者たちへのイエス様の愛を知って、心引き裂かれる思いがしました。御言葉を思い出し、合点がいきました。苦難のしもべの預言を思い出したことでしょう。イザヤ53:3〜9。この方こそ、人々からさげすまれ、のけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた苦難のしもべだ。この方が、私たちの罪を負い、私たちの痛みをになったのだ。だから、この人は罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
 ああ、この方の苦しみは、私のためなのか。私のそむきの罪のために刺し通され、私の咎のために砕かれたのか。そうだ、この方が私の身代わりに十字架にかかってくださり、私のたましいに平安をもたらし、その打ち傷によって私を癒してくださるのだと分かったのです。彼の心には、平安と癒しが訪れました。いつの時点で信じたのか分かりませんが、彼は、イエス様を救い主と知って信じたのです。
 もう十字架を背負わされたことは、忌々しい屈辱ではなくなりました。救いの恵みの始まりでした。惨めな出来事でありません。自分が生まれ変わり、人生が変えられるきっかけとなりました。むしろ、イエス様の苦しみにあずかれたのですから、喜んで感謝しました。Tペテロ4:12〜13。ですから、私たちも、試みや苦難に出会った時、なぜ私が、どうしてこんな目にと何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、信仰でもって受けとめたいのです。
 私たちもイエス様に出会わなければなりません。シモンを通して、間近に苦難のイエス様を覚え、苦難の意味を思います。イエス様は、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさいと私たちを呼んでくださいます。イエス様のくびきを負ってわたしから学びなさいと言われました。マタイ11:28〜29。

V−家族の祝福へ−21,
 なぜ、シモンがイエス様を信じたと分かるのでしょうか。クリスチャンとなった彼の家族の名前が記されているからです。21節。イエス様との驚くべき出会いがシモンを信仰へ導き、その家族を救いに導きました。家に帰ったシモンは、家族に福音を伝え、家族も救われました。アレキサンデルとルポスとの父と記されていることから、彼の息子たちが初代教会で名の知られていた聖徒であることが分かります。
 彼の息子たちは、使徒パウロと交わりのあったことも記されています。ローマ16:13。何と、息子たちの母すなわち、シモンの妻はパウロからお母さんと呼ばれるほどの交わりと働きがあったことが分かります。シモンの家族はみながイエス様を信じて、初代教会のために献身した家となったのです。使徒11:20を見ると、クレネ人の聖徒がアンテオケに行って、福音を伝え、その結果教会が立てられたことが分かります。使徒13:1を見ると、クレネ人ルキオがその教会で用いられています。クレネの初穂はシモンです。クレネでのシモンの働きが大きかったのでしょう。
 むりやり十字架を背負わせられたことが、自分と家族を救いに導きました。なぜ私が、どうしてこんな目にと思った悲しい経験が、家族を多大な祝福に導き、その家族が初代教会の柱となったというのです。むりやり負わされた十字架であっても、十字架は人を生かし、祝福します。十字架は、苦難のように訪れますが、祝福の通路となります。私たちの労苦は、主にあって無駄ではありません。神様の祝福が自分と家族に臨む機会となるからです。このシモンとその家族に起きた十字架の恵みを深く心に覚え、私たちと私たちの家族にも及ぶことを願います。
 私たちも、むりやり苦難を背負わせられたことがあるでしょう。望まない責任を負わせられ、侮辱や嘲りを受けることもあるでしょう。しかし、それは意味の無いことではありません。神様が私たちに祝福を与える過程となります。苦難に出会う時、その意味するところは分からないとしても、その苦難を信仰で受けとめ、取り組む過程を通して、その意味と価値を知るようになるでしょう。結果、自分の人生が変えられ、家族が祝福を受けるのです。
 私たちは、人生において十字架を負わせられる時があります。仕事や家庭のことで、人間関係のことで、病気や体のことで十字架を背負わせられることがあります。今自分が負わせられている十字架が何か思い巡らしてください。シモンを思い出して、信仰をもって背負ってください。むりやり背負わせられる十字架は、祝福の通路であることを覚えてください。シモンの家に祝福をくださった神様が、私たちにも祝福をくださることを願います。
 イエス様は言われました。ルカ9:23。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と。クレネ人シモンは、その後もイエス様から与えられた信仰の十字架を負ってついて行きました。私たちも自分の十字架を負ってイエス様について行きたいのです。そうして私たちの人生が変わり、私たちから影響を受ける人の人生が変ります。Tペテロ4:12〜13。



マルコ15:16 兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。
15:17 そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、
15:18 それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んであいさつをし始めた。
15:19 また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。
15:20 彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。
15:21 そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。
15:22 そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。
15:23 そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。
15:24 それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。
15:25 彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。


ルカ23:26 彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。

イザヤ53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

マタイ11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

ルカ23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

Tペテロ4:12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、
4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。

ローマ16:13 主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。

ルカ9:23 イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

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