2019年5月5日「知恵の叫び、イエス様の声」箴言1:10〜33

序−現代は、経済的、社会的不安のために、ますます道徳や倫理が廃れて来ています。確かに、老舗や大企業、役所での不正やごまかしがあまりにも多くなっています。世界に比べて高いと言われた日本人の道徳観、品性も下って来ています。今こそ、イエス様を信じる者が地の塩世の光として世に生きて行くことを求められています。

T−惑わしに従ってはならない−10〜19
 箴言の勧めは、まず消極的なところから始まっています。10〜16節。「罪人たちがあなたを惑わしても、彼らに従ってはならない」と言っています。悪い者と一緒になるなと言うのです。悪に参加すると必ず失敗し、命を失うと警告しています。17〜19節。交読文で読んだ詩篇1:1には、「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人」と称賛しています。それくらい人々は、悪者のはかりごとに歩み、罪人の道に立ち、あざける者の座に着き易いということです。私たちは、どうでしょうか。
 昨今道徳の特別教科化が話題となり、その内容が問題とされています。具体的なことになると意図するところと受け取られるところには隔たりが生じるからです。11〜14節を見て、私たちは、そんなことは間違ってもしない、自分は惑わしに陥らない、自分には関係ないと思うでしょう。強調しているのは、その内容ではありません。「惑わしに従ってはならない、一緒に道を歩いてはならない、彼らの道に踏み入れてはならない」ということが強調されています。
 子どもが成長して、自分で判断と決定ができるようになると、その自意識を攻撃して来るのが、悪友の誘惑です。「あいつ気にいらないから、やっつけようぜ。あいつばかり持っているのはずるい、取り上げよう」と言われて、従ってしまうのです。大人は、もっと巧妙に表現されるので、気付きません。たとえば、噂話に引き入れて、批判や文句を聞かせます。人の言うことを真に受けて流されるなら、彼らの道に踏み入れています。気にいらないと悪く言うならば、悪者と一緒に道を歩いています。
 そもそも、なぜ誘惑されるのか。悪は、人間の持つ欲に付け入り、誘惑するのです。ヤコブ1:15。ですから、一度誘惑されて一緒に行くと、続きます。終わりがありません。自分の命を失うまで、抜け出すのは困難になって来ます。詩篇1:1を見てください。まず、「あざける者の座に着かない」と勧めています。噂話や人を悪く言う場に着かない、そういう場を避けることが必要です。そうしないと、悪者のはかりごとに歩み、罪人の道に立つ、すなわち一緒に悪をなすようになるのです。
 現代は、悪いことは悪いとしていない時代です。子どもたちの世界では、「何々ちゃんもしているよ」と言い訳をします。大人の世界では、世間もそうしているからともっと認識が薄れて来ます。悪者と言っても、みながしているのですから、普通の人です。不正や事件を起こす人までみな、誰かのせいにし、社会が悪いと言うのです。
 イエス様は、宣教を始められた時、「悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。マルコ1:15 。人と同じように生きて来ましたが、そこに罪を認めて、悔い改めなさいと言われたのです。「かつては悪い行いの中にあったのですが」イエス様の犠牲によって赦された者となりました。コロサイ1:21〜22。イエス様は、私たちが罪から離れて、義に生きるために十字架にかかってくださいました。Tペテロ2:24。イエス様を信じた者は、自分の肉を情欲や欲望とともに十字架につけてしまったことになります。ガラテヤ5:24。
 ですから、まずは、悪を言わず、偽りを語らず、悪から遠ざかりなさいと勧められるのです。Tペテロ3:10。

U−知恵の叫び、知恵の叱責−20〜32
 そして、次に叱責を聞くことです。20〜21節。知恵が叫ぶ、知恵が語ると擬人化されています。ですから、聖書学者たちは、この知恵とは、イエス様のことだと言っています。ちまた、広場、まちかど、町の門とは、いずれも人々が大勢集まるところです。そういう所で、預言者たちが神様の御言葉を伝えました。エレミヤ17:19〜20。イエス様も、会堂や広場で大勢の人々に福音を語られました。そして、人々の頑なさを嘆かれました。マタイ11:21,23:37。弟子たちの不信仰を嘆かれました。マタイ17:17。
 これまで、知恵の忠告を聞いても、「わきまえのない者たちは、いつまでもわきまえのないことを好み、あざける者は、いつまでもあざけりを楽しみ、愚かな者は、いつまでも知識を憎んでいる」というのです。これまで、知恵の言葉を拒み、訓戒を顧みず、忠告を無視し、知識を憎み、主を恐れず、叱責を受け入れなかったというのです。21〜25,29〜30節。
 なぜ、知恵の声は、多くの人々のいる所で叫ばれたのでしょうか。本当は、人々が知恵の言葉を必要としているからです。道徳や倫理が廃れて来ている時代、何が良いことで悪いことか、何をすべきか避けるべきかわきまえ知ることが必要だからです。ローマ12:2〜3。イエス様が、神の民に「耳のある者は聞きなさい」と語りかけられました。マタイ11:15。神の知恵は、今日も叫んでいます。イエス様が私たちに語りかけておられます。
 私は知恵と知識がある、私は自分の考えで行く、私は自分の判断で大丈夫だと思いながら、欲に翻弄されて、罪に流されます。世は、知識や知恵のある上に立つ者が、不正や偽りを行っています。わきまえのない者はわきまえのないことを好み、あざける者はあざけりを楽しみ、愚かな者は叱責を受け入れません。彼らの特徴は、拒んだ、顧みない、無視し、受け入れないという表現がよくあらわしています。24〜25節。
 私たちはどうなのでしょうか。御言葉を素直に謙遜に聞いて、従っているでしょうか。御言葉はそう言うけれど、私の思いに合わないなどと言って、拒んで、無視していないでしょうか。
 知恵の声を無視するのは、危険です。26〜28,30〜32節。知恵の声に耳を傾けず、無視して、顧みず、高慢になっている愚かさはあまりにも危険です。平安と幸いがありません。権力とお金を得させない知恵なんてとあざける者、欲を満足させない教えなんてと言う愚か者、罪の忠告も顧みないわきまえの無い者は、人生の嵐に襲われるなら、ひとたまりもありません。苦難と苦悩が訪れる時、助けを受けることができません。私たちはどうでしょうか。

V−叱責に心を留めるなら−23,33
 知恵の声に耳を傾け、叱責を聞きましょう。33節。驚くべき平安が臨みます。主は、私たちの苦しみと悩みをご存知です。問題の中にいる私たちを覚えておられます。嘆いている私たちを励ましてくださいます。知恵の声を聞かなければなりません。ところが、人は忠告や叱責を聞きたくないのです。25節。主の御声を聞こうとしないのです。罪のため、欲のために、高慢のためにです。信仰についての間違った理解が、自分の思いを難しくしているのです。私たちの問題は、御言葉を聞かないことから来ています。私たちにとって優先事項は、主の御声を聞くことです。「耳のある者は聞きなさい」とイエス様は言われます。マタイ11:15。
 主の御声を聞くまでは、私たちは、恐れの中にいます。心配や悲しみがなくなりません。しかし、主の御声を聞くならば、平安に導かれます。本当に悔い改めて、御言葉の叱責を聞くなら、主の恵みと祝福を豊かに受けるようになります。人の叱責や忠告も聞けるようになります。
 私たちの罪と滅びの身代わりにイエス様が十字架にかかってくださいました。Tペテロ3:18。イエス様の十字架による救いを信じる者には、御霊が臨んで、内に住んでくださいます。ヨハネ14:16〜17。知恵の声も、「わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、わたしのことばを知らせよう」と約束しています。23節。どんなに幸いなことでしょうか。御霊が私たちを御言葉に聞き従わせ、悔い改めに導き、造り変えて、新しい命に生きる者としてくださいます。
 私たちへの叱責は、愛の表現です。立ち返る可能性のない者を叱責されるでしょうか。私たちは、イエス様の叱責に応える必要があります。Uコリント6:2。切実に私たちを呼んでおられます。イエス様は、私たちに救いの道を与えてくださいました。
 主の御言葉に聞き従う者、主の叱責を感謝して受ける者は、試練や苦難を恐れる必要はありません。主が共にいてくださり、平安に導いてくださるからです。ヨハネ16:33。これは、イエス様の約束です。なぜなら、私たちに平安を与え、患難多き世に勝利するために、イエス様が十字架にかかられたからです。これを信じてください。イエス様の救いを信じた者には、罪の赦しと解放が宣言されています。辛い努力が求められているのではありません。イエス様の愛と赦しという救いの恵みに応えて、罪から離れ、御言葉に聞き従って行くのです。イエス様の愛と赦しが先にあります。
 神様は、神の子どもとされた私たちを祝福と平安に導くために、知恵の叫び、叱責の御言葉を与えてくださいます。私たちが忘れてならない最も大事なことは、主が語られたことはどんなことであっても、それは主の愛の表現であるということです。イエス様が私を愛しておられると思える人は、すでに救いの恵みを受けている人です。Uコリント6:2。



箴言1:10 わが子よ。罪人たちがあなたを惑わしても、彼らに従ってはならない。
1:11 もしも、彼らがこう言っても。「いっしょに来い。われわれは人の血を流すために待ち伏せし、罪のない者を、理由もなく、こっそりねらい、
1:12 よみのように、彼らを生きたままで、のみこみ、墓に下る者のように、彼らをそのまま丸のみにしよう。
1:13 あらゆる宝物を見つけ出し、分捕り物で、われわれの家を満たそう。
1:14 おまえも、われわれの間でくじを引き、われわれみなで一つの財布を持とう。」
1:15 わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない。
1:16 彼らの足は悪に走り、血を流そうと急いでいるからだ。
1:17 鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ。
1:18 彼らは待ち伏せして自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない。
1:19 利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主のいのちを取り去ってしまう。
1:20 知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、
1:21 騒がしい町かどで叫び、町の門の入口で語りかけて言う。
1:22 「わきまえのない者たち。あなたがたは、いつまで、わきまえのないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。
1:23 わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。
1:24 わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ。わたしは手を伸べたが、顧みる者はない。
1:25 あなたがたはわたしのすべての忠告を無視し、わたしの叱責を受け入れなかった。
1:26 それで、わたしも、あなたがたが災難に会うときに笑い、あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう。
1:27 恐怖があらしのようにあなたがたを襲うとき、災難がつむじ風のようにあなたがたを襲うとき、苦難と苦悩があなたがたの上に下るとき、
1:28 そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、わたしは答えない。わたしを捜し求めるが、彼らはわたしを見つけることができない。
1:29 なぜなら、彼らは知識を憎み、【主】を恐れることを選ばず、
1:30 わたしの忠告を好まず、わたしの叱責を、ことごとく侮ったからである。
1:31 それで、彼らは自分の行いの実を食らい、自分のたくらみに飽きるであろう。
1:32 わきまえのない者の背信は自分を殺し、愚かな者の安心は自分を滅ぼす。
1:33 しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである。」



詩篇1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。

ヤコブ1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。

マルコ1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

ガラテヤ5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

Tペテロ3:10 「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、
3:11 悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。

ローマ12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

マタイ11:20 それから、イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。
11:21 「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。

マタイ11:15 耳のある者は聞きなさい。

Tペテロ3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

Uコリント6:2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

ヨハネ16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。




箴言4:23 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。



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