2019年7月7日「御言葉を守って生きよ」箴言7:1〜27

序−箴言は、知恵と真理の光の下で個人の生活に適用して行く訓練をさせます。箴言は、具体的に訓戒が教えられていますから、正しく適用され、用いられるなら、私たちの生活に大きな力となります。今日の箇所では、誘惑に陥る愚か者の姿を通して、誘惑に対する知恵を教えています。

T−誘惑に陥る過程−6〜20
 今日の箇所には、わきまえのない思慮に欠けたひとりの若者の行動を窓からこっそり見ている場面を通して、その誘惑に陥る過程を見せてくれています。6〜7節。面白い設定ですね。それは、罪が誰も見ていない所で密かに行われることだからですが、主なる神が見ておられるということです。わきまえのない思慮に欠けた者ということは、御言葉の知恵に聞き従っていない、神の目を覚えていないということです。それが、どんなに危険なことで無防備であるかをこれから見せてくれます。
 彼は、誘惑する女のいる所に出て行きました。8〜9節。ことばのなめらかな見知らぬ女とは、誘惑する者だということです。5節,箴言5:3。明るい昼間ではなく、顔のよく見えない夜に出かけました。誘惑され、罪に陥る危険を承知で出て来たことになります。たまたま道を歩いていて誘惑されたというのでなく、自ら誘惑される所に出て来たのです。
 誘惑について、重要な点を教えています。様々なほかの誘惑も同じです。誘惑というと、受身や被害者意識なのですが、誘惑にあう場面に自ら出ているのです。誘惑を受ける状況に自らを置いているのです。それなら、誘惑を受けるのは、自分の考えや選択の結果であり、自分の責任なのではないですか。私たちは、どんな誘惑を受けていますか。誘惑を受け易い状況に自分を置いていませんか。
 誘惑する女が家の外で待っていて、出迎えました。10〜12節。遊女の装いとは、目立つ派手な服を着て、濃い化粧をして、言葉巧みに誘惑していたということです。自ら危険な場に出て行ったために、火に飛び込む夏の虫のように、待ち伏せる誘惑に捕まってしまうのです。人を罪に誘う機会はどこにでもあります。仕事上の不正や誤り、人間関係の争いや怒りもしかりです。そうした罪に誘惑される場面や状況に自ら出て行くことで誘惑されるのなら、過ちに陥る場面や状況に自分を置かないことです。
 信仰があるから大丈夫と考えるでしょうか。何と、誘惑する者のなめらかな言葉は、信仰をさえ騙しの道具にしてしまいます。言葉巧みに彼の最後の警戒心を解いてしまうのです。13〜15節。和解のいけにえとは、罪人が神との関係を回復し、交わりを享受するためにささげたものです。犠牲の一部を主なる神にささげ、その残りの部分は人々にご馳走するならわしでした。そのようにしてあなたを待っていたというのです。こうして、彼の心に残っていた信仰的拒否感を薄めてしまいました。
 たとえば、信仰の男女二人が会って、聖徒の交わりをしようとする場合、聖徒の交わりはよいものでも、2人だけで部屋で会うとしたら、危険な誘惑となります。ギャンブルや酒場へ出かけるのに、伝道の話ができるかもと言って罪意識を薄めようとします。時には、信仰的な拒否感を薄め、自分の行為を正当化するために、信仰的な事柄を利用するのです。
 この最後の砦であった信仰的拒否感を崩されてしまった彼は、もう女の言いなりです。女は、臆面もなく誘惑の言葉をストレートに浴びせて来ます。16〜21節。彼の残っていた良心の呵責も、和解の食事を聞いてなくなり、女の誘いの言葉が自分に喜びと幸いをくれるように聞こえて来ました。神様は、男女が愛し合って、幸いと喜びを得るようにしてくださいましたが、そこには大変な代価が伴っていることを知らなければなりません。愛するならば、自分の人生を明け渡さなければなりません。
 その責任を持とうとしないで、愛の幸いと喜びだけ得ようとするのは、神様の祝福を盗むことです。人々が男女の肉の愛に騙される理由は、その勝手な愛がどれほど醜悪なものであるが分からないで、純粋なものと錯覚するからです。しかし、実際にはそのような愛は、恐ろしく、その罠に捕らわれてしまいます。結局、破滅に陥ってしまいます。

U−誘惑に陥った結果−21〜27
 女の誘惑に落ちてしまうと、彼は、ただちに女につき従うようになりました。21〜23節。もう抗う思いもありません。まるでほふり場に引かれる牛のようになり、足かせを付けられた愚か者のように女に従うのです。ほふり場に引かれる牛は、自分がほふり場に行くことを知らずに、引かれて行くまま付いて行くのです。結局、人が誘惑に陥るならば、家庭が崩壊し、職場を失い、勉強が破綻します。誘惑に陥ることは、自分の命が失われるのを知らずに行くようなものです。
 ところが、幸いなことに、神の民には、罪に陥るなら、どのようになるかを聖霊が知るようにさせてくださいます。24〜25節。やがて時間が過ぎれば、幸いや喜びに思えなくなり、なぜこんな誘惑に陥ったのかと後悔するようになります。い私たちを取り囲む世界には、様々な誘惑があります。誘惑に陥った後、痛い目に会い、分かるようになり、後悔するのです。それでも、そこから立ち返えれば、いのです。
 そもそも、聖徒たちには、誘惑の恐ろしさと悲惨な結果まで御言葉をもって教えられているので、誘惑にかからないでいることができるはずです。しかし、多くの聖徒たちが、御言葉に聞き従わないで、自分の肉の感情に騙されて人生を悲惨にしてしまいます。26〜27節。多くの人々が、自分の誘惑に陥り易さをみくびって、自覚していません。信仰が強いと思うから、誘惑にあい挫折するのです。聖書は、私たちが誘惑に陥り易い者だと警告しています。誘惑に陥り易い者だと自覚しておられますか。私たちが、誘惑に陥らないためには、どうしたらよいのでしょうか。

V−神の御言葉の役割−1〜5
 誘惑に陥らないために、御言葉が与えられています。1〜5節。御言葉を〜せよと繰り返し、表現を変えて命じています。まず、「御言葉を守れ」と言っています。1節。「御言葉を瞳のように守れ」と言います。2節。瞳のように、一番大事なものとして御言葉を守るようにと言うのです。体の健康のために良い生活習慣を守ろうとする人は多いですが、心の健康のために御言葉を守ろうとする意識がありません。御言葉を自分の瞳とするならば、御言葉ですべての物事を見るようになります。もし御言葉を除いてしまうならば、私たちは霊的な盲目とならざるをえません。私たちは、時々目の前が真っ暗になる時があります。その時、御言葉を目から取り除き、人間的な考えですべてを見ている時なのです。
 御言葉を大事にしなければなりません。「御言葉をあなたの心の板に書きしるせ」と言っています。3節。これは、御言葉を人生の中で最も重要なものとするという意味です。私たちは、神の御言葉を愛して、大事にして、心に刻む必要があります。これは、人がしてくれるものでなく、自分ができることです。自分を励まし、救い、戒め、導いてくれる御言葉を「心のうちに蓄え」ましょう。1節。暗唱聖句は、大事です。「あなたの指に結ぶ」というのは、いつも覚えているということです。3節。何かを手の指に結ぶことは、約束をするということです。指きりの約束をします。結婚指輪もそうです。ですから、すべてのことを神様の視点から見て、すべてのことを御言葉によってすると約束することになります。
 私たちがこのようにするためには、御言葉に親しんで、御言葉を身近にしなければなりません。4節。「知恵を私の姉妹だ、身内の者」というのは、神様と姉妹や身内のように親しく、交わるということです。すべての秩序において、神を認めることです。それが私たちの生活です。神の知恵を生活のすべての領域に適用して、神と同行する生活を生きるのです。どうか、毎週の礼拝を通して、セルやデボーションを通して、御言葉が心に刻まれますように願います。誘惑に出会い、困難に接した時、いざという時に心に刻まれた御言葉が、自分を助けて、守って、導いてくれます。
 そして、「御言葉に生きる」ようにと言っています。2節。「御言葉を守って、生きる」というのは、御言葉を生活化しなさいということです。聖徒たちは、御言葉を学ぶことはします。熱心に聞き、読むことはします。しかし、御言葉通り生きることを考えません。都合の良い時だけは参考にします。イエス様を信じて救われ、新しい命に生きる私たちには、御言葉が与えられています。御言葉を食べて生きるのです。そうでないと、いざという時、心に御言葉がなく、誘惑や患難から守られず、悩みや失意に陥ります。御言葉によって生きて、罪から守られますように、患難の中で守られますように願います。詩篇119:133。
 困難や試練の解決策は、神の御言葉を受け入れ、それを私たちの生活の現場である家庭、学校、職場などで、そのまま適用して実践してみることです。ヨシュア1:8。信仰の問題は、御言葉を聞かないことではありません。御言葉を知らないことでもありません。御言葉に生きることをしないことです。家庭、学校、職場の現場で適用してみようと考えないことです。聞いて、知っている御言葉を実践しないままだとしたら、何と愚かな、空しいことでしょうか。イエス様は言われました。「『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」。マタイ7:21。



箴言7:1 わが子よ。私のことばを守り、私の命令をあなたのうちにたくわえよ。
7:2 私の命令を守って、生きよ。私のおしえを、あなたのひとみのように守れ。
7:3 それをあなたの指に結び、あなたの心の板に書きしるせ。
7:4 知恵に向かって、「あなたは私の姉妹だ」と言い、悟りを「身内の者」と呼べ。
7:5 それは、あなたを他人の妻から守り、ことばのなめらかな見知らぬ女から守るためだ。
7:6 私が私の家の窓の格子窓から見おろして、
7:7 わきまえのない者たちを見ていると、若者のうちに、思慮に欠けたひとりの若い者のいるのを認めた。
7:8 彼は女の家への曲がりかどに近い通りを過ぎ行き、女の家のほうに歩いて行った。
7:9 それは、たそがれの、日の沈むころ、夜がふける、暗やみのころだった。
7:10 すると、遊女の装いをした心にたくらみのある女が彼を迎えた。
7:11 この女は騒がしくて、御しにくく、その足は自分の家にとどまらず、
7:12 あるときは通りに、あるときは市場にあり、あるいは、あちこちの町かどに立って待ち伏せる。
7:13 この女は彼をつかまえて口づけし、臆面もなく彼に言う。
7:14 「和解のいけにえをささげて、きょう、私の誓願を果たしました。
7:15 それで私はあなたに会いに出て来たのです。あなたを捜して、やっとあなたを見つけました。
7:16 私は長いすに敷き物を敷き、あや織りのエジプトの亜麻布を敷き、
7:17 没薬、アロエ、肉桂で、私の床をにおわせました。
7:18 さあ、私たちは朝になるまで、愛に酔いつぶれ、愛撫し合って楽しみましょう。
7:19 夫は家にいません。遠くへ旅に出ていますから。
7:20 金の袋を持って出ました。満月になるまでは帰って来ません」と。
7:21 女はくどき続けて彼を惑わし、へつらいのくちびるで彼をいざなう。
7:22 彼はほふり場に引かれる牛のように、愚か者を懲らしめるための足かせのように、ただちに女につき従い、
7:23 ついには、矢が肝を射通し、鳥がわなに飛び込むように、自分のいのちがかかっているのを知らない。
7:24 子どもらよ。今、私に聞き従い、私の言うことに心を留めよ。
7:25 あなたの心は、彼女の道に迷い込んではならない。その通り道に迷ってはならない。
7:26 彼女は多くの者を切り倒した。彼女に殺された者は数えきれない。
7:27 彼女の家はよみへの道、死の部屋に下って行く。



詩篇119:133 あなたのみことばによって、私の歩みを確かにし、どんな罪にも私を支配させないでください。

ヨシュア1:8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。

マタイ7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

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