2019年7月21日「二つの招待」箴言9:1〜18

序−シェークスピアは、作品の中で「人生は選択の連続である」と言っています。日々の選択が自分を作っているということです。食事の招待を受けたことがあると思います。そこで重要なのは、食事の内容よりその雰囲気であり、何よりも誰の招待かということです。今日の箇所は、対照的な2つの招待があり、どちらを選択するのかと聞いています。

T−知恵の招待−1〜6
 まず、知恵の招待です。1〜3,5節。知恵が擬人化されています。女性名詞ですから、知恵という女主人がご馳走を用意して招待しているというような設定です。ぶどう酒に混ぜ物というのは、高価な没薬を入れたものです。宮殿のような建物を建て、最高の料理と飲み物が用意されています。雰囲気も大変良いものです。その目的は、招待された者が満足を得るためです。満腹になるというのではなく、心の満足、精神的な満たしを目的としています。そんなパーティーに招待されたら、どうですか。
 招待されている人々は、どういう人々でしょう。4節。「わきまえのない者、思慮に欠けた者」を招待しています。自分は招待の対象ではないなと思われるでしょうか。「わきまえのない者」とは、考え方が単純で、周りの影響や誘惑を受けやすい者のことです。「思慮に欠けた者」とは、心が欠乏した者という意味です。家庭や職場や学校など生活の現場において、私たちは知恵を必要としています。混乱した現代社会の中で、私たちの周りにも様々なこと次々起こり、悩み苦しむことが多いです。本当の知恵が必要です。聖書の知恵は、世で生きて行く道しるべであり、力です。
 知恵のない者が来なさい、一緒に食べようと招待しています。知恵という女主人は、招待客に、知恵を通して、悟りとわきまえ、希望を与えてくれるというのです。これは、イエス様が十字架によって建てられる神の国に招待してくださることを連想させます。マタイ22:1〜10。イエス様は、ご自分が天からくだって来た命のパンであるから、ご自分を信じる者は救われて永遠の命を得ることができると言われました。ヨハネ6:51,54。
 「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」と言われました。ヨハネ6:35。「わたしに来る」とは、何の意味ですか。イエス様が救いの食卓に招待されたということです。その食事への招待は、神の国への招待、救いへの招待です。私たちを神の国の救いへ招待するために、イエス様が犠牲のいけにえとしてほふられ、十字架にかかられました。ヘブル9:26。ですから、イエス様は、「わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をする」と言われました。黙示録3:20。イエス様が私たちの心の扉をたたいておられます。心開いて、イエス様を救い主として迎えてください。
 イエス様を信じた者には、共に食事をする権利が与えられています。イエス様と交わり、知恵を得ましょう。私たちは、わきまえのない者、思慮に欠けた者です。この複雑な社会で、多くの患難や誘惑のある世で生きて行くには、本当の知恵が必要です。知恵は、「わきまえのないことを捨てて、生きなさい。悟りのある道を、まっすぐ歩みなさい」と言って、招待しています。6節。招待を受けて、そのように生きましょう。

U−愚かな招待−13〜17
 もう1つの招待があります。13〜15節。愚かな女の招待です。知恵の女主人とは対照的です。愚かな女は、騒がしく、色々言って、魅力的に思わせています。愚かな女は、自分を魅力的に飾って、自分が通りに出て、往来の人を招いて言います。知恵の女は、人々の心に訴えていたのに、愚かな女は、人々の感覚や欲に訴えるのです。不思議なことに、「盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい」と誘うのです。17節。そんな招待に、人々が応じるのでしょうか。
 ところが、多くの人々が招待に応じるのです。招待されている人々は、知恵の女の招待と同じく「わきまえのない者、思慮に欠けた者は誰でも来なさい」と招待しています。16節。ただし、「わきまえのないことを捨てて、生きなさい。悟りのある道を、まっすぐ歩みなさい」などとは、言っていません。むしろ、「わきまえのない者、思慮に欠けた者」のままでいいというのです。なぜなら、そのような人々にとっては、「盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい」からです。17節。
 現代の国際社会では、国も企業も技術や情報を盗み合っています。費用や労力を費やして生み出したものをこっそり盗んで、甘い利益を得ています。欲のままに生きる者にとって、労苦なしに手に入れるものはおいしいし、不正の利益は甘い味なのです。ギャンブルやくじで受ける利益を喜ぶことも、同じ感覚でしょう。世には、肉の感覚を刺激し、欲の思いを誘惑するものでいっぱいです。社会において、人々の感覚が麻痺して、「盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい」と感じています。私たちは、どうでしょうか。
 イエス様の福音は、「わきまえのない者、思慮に欠けた者」のままで来なさいと招いてくださいます。でも、救われたら、「わきまえのないことを捨てて、生きなさい。悟りのある道を、まっすぐ歩みなさい」と求めます。なぜなら、イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかってくださったからです。そんな尊い犠牲によって罪赦されて、命が与えられました。救われたら、救いの恵みに応答しないではいられません。恵みに応答する機会はあります。私たちは、選択するだけです。
 愚かな女の招待状には、「あなたの肉の思うままになりますよ。あなたの欲の願いが叶います。努力せずに、遊んで暮らせます。こちらの道は広です」と魅力的に記されているでしょう。そして、大きな門から多くの人が入っていきます。マタイ7:13。一方、知恵の女の招待状には、「本当の平安を得たいですか。命の道に入りたいですか。それなら、狭い門から入りなさい」と記されているでしょう。マタイ7:13〜14。愚かな女の招待に応じた者たちは、その結果どうなるのですか。18節。滅びに至る門は大きく、その道は広いのです。知恵の女の招待を無視して、高慢と肉のプライドで歩む人生を選択する者は、最終的に恐ろしい場所に行くようになります。

V−招待に応じる結果、知恵の生き方−7〜12
 一方、知恵の女の招待を受けた人々には、次のようなことが告げられています。7〜9節。「あざける者」とは、肉のプライドの者、高慢な者、不遜な者という意味です。信仰的、道徳的な生活をあざけり、知恵ある者をあざけります。あざける者は、他人を鋭く批判し、絶えず争いを起こす否定的な人々です。反対に、自分が助言や忠告を受けるなら、憤慨し、助言や忠告をする者を攻撃します。あざける者は、頑ななために、知恵の教訓をしりぞけ、正しい助言や忠告も受け入れることができません。
 そして、助言や忠告をした者は、傷を受けることになります。生活の現場で私たちが出会うことについて、知恵の示唆を与えています。知恵は、言います。憎まれ、攻撃されるくらいなら、あざける者を責めるなというのです。8節。そのような否定的な攻撃的な人からは、逃げることが得策だというのです。戒める者は、あざける者を簡単に変化させることができると勘違いをしています。消極的な対応に感じるかもしれませんが、「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから」という主の言葉を思い出します。マタイ7:6。
 反対に、知恵ある者に助言や忠告をしなさいと勧めています。8〜9節。知恵を受け入れる人は、正しいことを知るのを望み、積極的に正しいことを追求するので、自分に対する助言や忠告を受け入れます。私たちは賢い者ですか。人の忠告や叱責を聞いて怒り、憎みますか。それとも、耳に痛くとも聞いて、受け止めますか。どちらを選択していますか。
 私たちが、人の言葉に反応し、傷つくことがあります。もちろんその言葉は、正しい助言や忠告とは限りませんが、それに私たちの肉のプライドが反発し、怒り、心に傷を受けるのです。人のせいばかりとはできません。あざける者とは、肉のプライドの者という意味でした。私たちの肉のプライドが反発し、怒るなら、私たちもあざける者になっています。私たちはあまりにも人の評価を求め、その評価に影響されています。私たちを本当に評価してくれるのは、主です。イザヤ43:4。
 そのような知恵の対応はどうしてできるのでしょう。主の知恵を得ることです。10〜12節。「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」と、最も重要な真理を宣言しています。主を恐れること、聖なる方を知ること」とは、主なる神との人格的な交わりを意味します。つまり、知恵の女の招待を応じて共に食事をするとは、主なる神と人格的な関係を結び、神の知恵を得て、真の命に生きることです。
 私たちは、絶えず2つの道の選択に直面しています。基盤は御言葉なのか、自分の知恵や力なのか。御言葉に従うのか、自分の肉の思いや欲に従うのか。肉のプライドによって生きるのか、イエス様とともに生きるのか。それは自分の選択ですから、その結果の責任を自分自身が負うことになります。12節。知恵ある選択ができることを願います。黙示録3:20。



箴言9:1 知恵は自分の家を建て、七つの柱を据え、
9:2 いけにえをほふり、ぶどう酒に混ぜ物をし、その食卓も整え、
9:3 小娘にことづけて、町の高い所で告げさせた。
9:4 「わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい」と。また、思慮に欠けた者に言う。
9:5 「わたしの食事を食べに来なさい。わたしの混ぜ合わせたぶどう酒を飲み、
9:6 わきまえのないことを捨てて、生きなさい。悟りのある道を、まっすぐ歩みなさい」と。
9:7 あざける者を戒める者は、自分が恥を受け、悪者を責める者は、自分が傷を受ける。
9:8 あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。
9:9 知恵のある者に与えよ。彼はますます知恵を得よう。正しい者を教えよ。彼は理解を深めよう。
9:10 【主】を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。
9:11 わたしによって、あなたの日は多くなり、あなたのいのちの年は増すからだ。
9:12 もし、あなたが知恵を得れば、その知恵はあなたのものだ。もし、あなたがこれをあざけるなら、あなただけが、その責任を負うことになる。
9:13 愚かな女は、騒がしく、わきまえがなく、何も知らない。
9:14 彼女は自分の家の戸口にすわり、町の高い所にある座にすわり、
9:15 まっすぐに歩いて行く往来の人を招いて言う。
9:16 「わきまえのない者はだれでもここに来なさい」と。また思慮に欠けた者に向かって、彼女は言う。
9:17 「盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい」と。
9:18 しかしその人は、そこに死者の霊がいることを、彼女の客がよみの深みにいることを、知らない。


ヨハネ6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

ヘブル9:26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。

黙示録3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

マタイ7:13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。
7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

マタイ7:6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。

イザヤ43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

戻る