2019年9月29日「貧しくても、誠実に歩む者」箴言19:1〜29

序−「中流層が貧困層へ」「超富裕層と新貧困層の2極化」などと表現されるほど、現代日本の貧困化は社会問題となっています。資本主義の矛盾が噴き出している時代と言われています。聖書は、「貧しさ」についてどんなことを教えているのでしょう。今日の箇所から学びます。

T−貧しい者の苦痛−4,9, 21,23,箴言30:8〜9
 貧しさに対する人々のイメージは、苦しいもの、いやなもの、克服すべきものです。誰でも、貧しさを嫌い、貧しさから抜け出そうとしています。貧しくなることを恐れ、裕福になることを目指して努力しています。ですから、貧しさを嫌うために、貧しい人を嫌うというのです。4,7節。裕福な人は人々から好まれ、友達ができるが、貧しい人からは友が離れるというのです。金の切れ目が縁の切れ目なんて、嫌なことわざもあるくらいです。英語のことわざに、富がテーブルについている限り、友人もそこに座っているというのもあります。もちろん、このような人々は、真の友ではないでしょうが、寂しく辛いことです。
 嫌われるどころか、貧しい者は親族や隣人から憎まれるというのです。7節, 箴言14:20。おそらく貧しい者から助けを求められるのを嫌がり、借金のことで憎むようになるのでしょう。安易に借金し、踏み倒す者もいたからでしょう。貧しいだけで辛いと感じているのに、人々が遠ざかり、憎まれるのであれば、なおさら辛く、寂しさを感じることでしょう。
 古代社会では、裕福な支配層が、貧しい人からさらに取り上げて、苦しめていました。箴言30:14。貧しい者は、ますます苦しめられました。現代の制度や政策も、人々を中流層から貧困層へ追いやり、助けるどころかますます貧しくさせているようです。現代の人々も、不安や恐れの中にいます。ですから、貧しい者を「寄るべのない者」と言っています。
 聖書は、貧富について何と言っているのでしょうか。箴言30:8〜9。貧富のどちらがいいとも言っていません。貧富のことより、ただ、主が自分に定められた分の食物で自分を養ってくれることを願うのです。裕福で主に頼ることを忘れ、主から心離れることがないように、貧困で罪を犯すことがないようにと願うのです。大事なことは、神様に拠り頼む、神様を寄るべとすることです。人は、神との関係の中で生きる存在であり、他の人と一緒に生きる存在です。ですから、貧富のことについても、まず主を恐れて、主を覚えなければなりません。21,23節。たとえ貧しくとも、主と共に生きて行くなら、そこに平安と守りがあります。ルカ6:20。

U−貧しさを受け入れる−1,22,ピリピ4:12
 主は、人が貧しさに左右されないことを望んでおられます。貧しい中でも、誠実に生きることを求めておられます。1節。貧すれば鈍すると言われるように、貧しさのために愚かになり易いものです。愚かになって、間違ったことを言い、悪いことを考えないように指摘されています。でも、聖書は、貧しくても、人を愛することができると言っています。22節。貧しくても、人を愛して、誠実に歩むことができます。世で認められて生きることができます。
 たとえ裕福だとしても、曲がったことを言う愚かな者であるより、貧しく誠実に歩む者となる方がよいと言っています。1節。たとえ豊かだとしても、まやかしを言う者より、貧しくても人を愛することができる者がはるかによいと言っています。22節。信仰をもって生きる者は、貧しくても誠実に歩むことができ、貧しくても人を愛することができます。
 使徒パウロは、自分を支援してくれていたピリピ教会に、こんなことを言っています。ピリピ4:12〜13。裕福な家に育ち、宣教師となったパウロは、貧しさの中にいる道も、豊かさの中にいる道も知っている人でした。飽食も飢えも、裕福も貧しさも経験した人です。その結果、どちらが良い悪いではなく、主によって、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ていると証ししています。要するに、私たちは、どんな境遇であろうと、主を恐れて、信仰をもって生きることが重要だということです。
 婦人の多かったピリピ教会は、唯一パウロを支援していた教会でしたが、困難や問題もかかえていた教会でした。ピリピ4:14〜15。問題や困難をかかえながらも、パウロを支援することで、かえって励まされ、助けられ、恵みを受けました。今日の箇所でも、貧しさの中にあっても、人を助けることができ、恵みを受けることを教えています。17節。寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだから、主が報いてくださると約束しています。施し助けても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者があり、人を潤す者は自分も潤されると教えています。箴言11:24〜25。クリスチャンは、祈りで支援することもできます。
 私たちは、隣人との関係の中で、私たち自身の存在を考える時、私たちは、隣人に仕えるよう召された者だということです。神様は、隣人に仕えるように私たちを召してくださっただけでなく、召しに応じて隣人に仕えるならば私たちを祝福してくださいます。私たちの隣人は、私たちに仕える機会と祝福をもたらす恵みの手段だということができます。
 ですから、伝道の書は、隣人と共に生きる生活の大切さについて教えています。
共に労苦すれば、良い報いがあり、どちらか一人が倒れるなら、他の一人がその仲間を助け起こせばいいのです。裕福な者をうらやんだり、制度を憎んだりするより、共に貧しいなら、互いに助け合うことが大切だと聖書は教えています。
 箴言で頻繁に言及されている「貧しい者」「寄るべのない者」とは、助けが必要な人を象徴している言葉です。狭い意味での貧しい者とは、物質的支援を必要とする者を意味しますが、広い意味では、精神的な支援を必要とすることを含めて、助けを必要とする者を意味しています。その意味で、すべての人が精神的な支援を必要としている貧しい者です。心の痛みを受けている者です。心の癒しと満たしを必要としています。
 使徒ペテロが、物乞いに対して、「私には、金銀はないが、私にあるものをあげよう」と言いました。使徒3:5〜6。私たちは、物質の助けができなくても、もっと大事な、もっと必要なイエス様の救いで心を満たしてあげて、人を助けることができます。私たちは、イエス様の十字架による救いという宝を自分の内に持っている者です。Uコリント4:7。私たちは、自信をもって、金銀にまさる福音を証しして生きたいと願います。

V−貧しい者は勤勉に向かう−15,24
 貧しさは、懸命に働くことで克服することができます。今日の箇所では、なまけ者、怠惰な者に関して言及されています。15,24節。怠惰は人を深い眠りに陥らせ、なまけ者は飢えると言っています。会津磐梯山という民謡の歌詞に「小原庄助さん、何で身上潰した。朝寝朝酒朝湯が大好きで身上潰した」とあります。眠ってばかりで働かない者は、食べることさえできなくなります。ですから、勤勉に働くことで、貧しさを少しでも克服できるということです。人が怠惰な生活をするのは、価値ある人生の目的がないからです。なすべき目標を持っている人は、価値のある人生を生きるために努力するでしょう。この世に生きる間、神様が任せて下さった使命を達成するために、全力を果たさないではいられません。
 使徒パウロは、苦難と迫害と脅威と貧困の中でも、主から与えられた使命を果たすために、自分が当然取ることができる権利も放棄して命までも惜しみませんでした。使徒20:24。彼は、使命を果たさなければ、良心に激しい痛みを感じると言いました。Tコリント9:16。
 怠惰にしている間に時間は過ぎて行きます。怠惰のために、主が与えられた多くの機会を逃して、私たちの人生が台無しになってはなりません。怠惰は、信仰的な部分にも影響します。罪と戦うこともなく、神の前に正しい生活を向上させる試みもなく、神が喜ばれる生活を願って祈ることもしません。怠惰は、途中で止まってしまいます。24節。私たちは、祈り、御言葉に従い、使命を果たす必要があります。それが、勤勉な生活です。やがて神の前に立たされて人生の決算をするときを考えて、人生の目的と目標を点検しなければなりません。
 貧しくて、問題を抱えていても、この信仰的勤勉で生きているなら、窮することもなく、行き詰ることもなく、見捨てられることはありません。Uコリント4:8〜9。勤勉は、人を豊かにします。箴言10:4。勤勉に働くならば、収穫が与えられます。箴言13:23。貧困は、勤勉に学び、働くことを通して、克服することができます。発展途上国の貧困の原因として、人的資本特に教育の不足が挙げられています。貧しくても、教育を大事にして来た日本が、教育を疎かにすれば、貧困は急速に進むでしょう。勤勉に学び、勤勉に働くことが、貧困を克服させます。
 救い主として世に来られたイエス様は、私たちを救うために、ご自分が貧しくなられました。Uコリント8:9。ナザレのイエスとして貧しさと労苦を味わわれました。ご自分を卑しくし、ついには、十字架の死にまで従われました。ピリピ2:8。イエス様の十字架の犠牲を信じた私たちは、イエス様の貧しさによって恵みに富む者となりました。イエス様を信じた者に与えられた恵みは、何のためでしょうか。十字架に死なれるまで私を愛されたイエス様の愛を知って、その愛に感動して燃える目標をもって生きる人となることです。箴言19:1。



箴言19:1 貧しくても、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる。
19:2 熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。
19:3 人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は【主】に向かって激しく怒る。
19:4 財産は多くの友を増し加え、寄るべのない者は、その友からも引き離される。
19:5 偽りの証人は罰を免れない。まやかしを吹聴する者も、のがれられない。
19:6 高貴な人の好意を求める者は多く、だれでも贈り物をしてくれる人の友となる。
19:7 貧しい者は自分の兄弟たちみなから憎まれる。彼の友人が彼から遠ざかるのは、なおさらのこと。彼がことばをもって追い求めても、彼らはいない。
19:8 思慮を得る者は自分自身を愛する者、英知を保つ者は幸いを見つける。
19:9 偽りの証人は罰を免れない。まやかしを吹聴する者は滅びる。
19:10 愚かな者にぜいたくな暮らしはふさわしくない。奴隷が主人を支配するのは、なおさらのこと。
19:11 人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は、そむきを赦すことである。
19:12 王の激しい怒りは若い獅子がうなるよう。しかし、その恵みは草の上に置く露のよう。
19:13 愚かな息子は父のわざわい。妻のいさかいは、したたり続ける雨漏り。
19:14 家と財産とは先祖から受け継ぐもの。思慮深い妻は【主】からのもの。
19:15 怠惰は人を深い眠りに陥らせ、なまけ者は飢える。
19:16 命令を守る者は自分のいのちを保ち、自分の道をさげすむ者は死ぬ。
19:17 寄るべのない者に施しをするのは、【主】に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。
19:18 望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。しかし、殺す気を起こしてはならない。
19:19 激しく憤る者は罰を受ける。たとい彼を救い出しても、ただ、これをくり返さなければならない。
19:20 忠告を聞き、訓戒を受け入れよ。そうすれば、あなたはあとで知恵を得よう。
19:21 人の心には多くの計画がある。しかし【主】のはかりごとだけが成る。
19:22 人の望むものは、人の変わらぬ愛である。貧しい人は、まやかしを言う者にまさる。
19:23 【主】を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない。
19:24 なまけ者は手を皿に差し入れても、それを口に持っていこうとしない。
19:25 あざける者を打て。そうすれば、わきまえのない者は利口になる。悟りのある者を責めよ。そうすれば、彼は知識をわきまえる。
19:26 父に乱暴し、母を追い出す者は、恥を見、はずかしめを受ける子である。
19:27 わが子よ。訓戒を聞くのをやめてみよ。そうすれば、知識のことばから迷い出る。
19:28 よこしまな証人は、さばきをあざけり、悪者の口は、わざわいをのみこむ。
19:29 さばきはあざける者のために準備され、むち打ちは愚かな者の背のために準備されている。



箴言30:8 不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。
30:9 私が食べ飽きて、あなたを否み、「【主】とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。

ピリピ4:12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

箴言11:24 ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。
11:25 おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。

伝道者4:9 ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。
4:10 どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。

使徒20:24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

Tコリント9:16 というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。

箴言10:4 無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ます。

Uコリント8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

ピリピ2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

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