2019年10月20日「主の前に生きる」箴言22:1〜29

序−チクセントミハイという心理学者が提唱する「フロー理論」というものがあります。フローとは、ある事に精力的に集中して、没頭して、夢中になっている状態のことです。仕事も家事も勉強も、本当は楽しめる。大切なのは、何をするかではなく、どのようにするかだというのです。信仰生活は、まさにそうではないでしょうか。

T−神からの名声と愛顧を選ぶ人生−1
 フロー理論によれば、楽しく暮らすには、目標をもって、情熱的に生きて、楽しむことです。神の民は、どのように生きて行くか、選択をすることが勧められています。1節。富に執着するよりも、神からの名声と愛顧を選ぶことに集中して、没頭しなさいというのです。望ましいと訳されていますが、原語は「選ぶ」という意味です。愛顧とは、恵みとか好意という意味の言葉です。神に認められ、神の愛と恵みを受けることを選んで生きろというのです。富とは、世の欲が求めるものの象徴です。
 人の欲が求めるものよりも、神に認められ、神の愛と恵みを受けることを選択するのです。私たちは、神の前に召された者です。召された者がどのように生きるかが重要です。自分に与えられた人生に満足できることが、成功した人生です。神の名誉と愛顧を選んだ生活は、満足と充足感を与えてくれます。生活の中に楽しさとわくわくする思いがありますか。
 人は、毎日何かを選んで生きています。人生は、選択の連続です。選択は、人生に不可欠な要素です。最終的にどのような選択をするか、そこに人生がかかっています。受験の時には、どの学校どの専攻を選択するかを考え、決めなければなりません。日々の生活の小さな選択から人生の大きな選択まで、多くのことを選びながら生きていきます。
 生涯に良い影響を与える素晴らしい選択をすることもできれば、人生を台無しにする悪い選択もできます。ですから、私たちは、賢く選択することに精力を集中します。箴言は、賢い人の生き方愚かな人の生き方を選択させます。「主よ。私に正しい選択と良い選択をすることができる知恵を与えて下さい」と祈りましょう。
 人々が勤勉に努力する人生の目的を富に置いています。しかし、神からの名誉と愛顧を選択して人生を生きようとする人は、貧しいかどうか、富があるかどうかは神に任せたということです。2節。善良に生きて、神の愛と恵みをいただき、神から認められる人生が、楽しいわくわくした人生です。主から自分自身が尊く価値がある者だと認められる、それほどの幸いがどこにあるでしょうか。
 私たちは、神の恵みを選択する必要があります。神から助けられて保護されるのが愛護です。人々の選択は、計算された利益に偏る傾向があります。しかし、私たちは、生活の中で習慣的に賢い選択する人にならなければなりません。御言葉に聞き従いながら、祈りながら選択します。

U−謙虚と主を恐れることの報い−4
 人は、楽しい暮らしを求めます。私たちも、祝福や恵みを求めることには慣れています。しかし、苦難と痛みが迫って来るときは、不平不満でいっぱいになり、失望することがよくあります。苦難と痛みのときにも、私たちを救い愛しておられる主は、私と一緒におられ、私を守って助けておられます。ローマ8:32。その事実を忘れずにいれば、神がともにおられる望みがあります。
 神の恵みと祝福の保証とその条件が教えられています。4節。神の前ではいつも謙虚であり、神を恐れる者は、その結果として富と名誉といのちを褒美として受けるというのです。神の前に謙遜であり、神を褒め称えるなら、自分の不足を認め、神に聞き従って行く自分になるからです。反対に謙遜でないということは、高慢になることです。聖書は、高慢や高ぶりの罪がいかに大きく、その結果が悲惨であるかを教えています。箴言16:18,Tテモテ6:4〜5。
 謙遜には、隣人への謙遜と神への謙遜があります。人への謙虚さは、隣人を自分よりも貴い存在として尊重することです。ピリピ2:3。そして、神への謙遜は、イエス様を信じ、御言葉に従っていくことです。謙遜で主を恐れる者は、富と誉れといのちを得るからです。謙遜に神によく仕える人は、祝福を受けます。明らかに成功するという明快な約束です。世では、高慢で己を主張する者が活躍するように見えますが、謙遜で控えめな人が、人生で成功します。ですから、人に対しても神に対しても、謙遜であることに没頭します。高慢で生きるより、謙遜で生きる方が楽しいです。
 多くの人々が、世界の問題を一人で背負っているかのように難しくして、心配しています。神がおられないかのように不安になって、問題を難しくしています。本当に大切なことは、全能の神の御前にへりくだることです。主の前にへりくだるなら、自分が心の王座から降りて、人生の主である神に座っていただくのです。心を開いて、主を王座に迎えるのです。黙示録3:20。これが、信仰です。
 私たちが、霊的に造り変えられ、成熟し、成長し続けるためには、謙遜が必要です。私たちは、変化にオープンな心を持たなくては変わることができません。私達が造り変えられるためには、私たちに謙遜が必要です。自分自身を高め、威張ろうとすることが、社会の風潮であり、時代の精神です。しかし、聖書は、繰り返し謙遜を強調し、勧めています。
 なぜ謙遜であるべきなのでしょう。私たちが神の前に罪人であることを悟るならば、主を恐れます。私たちは、神の前で自分自身が罪人であることを告白して、私のために十字架にかかられたイエス様を私の救い主と信じる時、神様と私たちの間を隔てている罪と裁きの壁が崩れ、赦しと恵みが与えられて初めて、私たちは喜んで神にいくようになれたのです。謙遜の模範は、イエス様に見ることができます。ピリピ2:5〜8。ですから、情熱をもって、主に謙遜になることに没頭します。

V−熟練した仕事をする者は、王の前に立つ−29
 フロー体験とは、チャレンジとスキルが釣り合う状況でものごとに没入する体験であり、生活にわくわくする楽しみをもたらし、人生を充実させると言います。人々がチャレンジとスキルをもって没頭して、集中するのは、勉強や仕事ではないでしょうか。29節。「じょうずな仕事をする人」とは、仕事に熟練した人、精通した人という意味です。
 上手な人は、自分に託されたことを誠実に巧みに処理し、尊敬を受けるというのです。「王の前には立つが、身分の卑しい人の前には立たない」とは、尊敬される立場の人になって、軽く扱われないという意味です。  何かの専門家でなくても、クリスチャンは誰でも、自分に与えられた人生を最善を尽くして生きることが求められています。神の民は、自分に与えられた務めに最善を尽くして集中し、没頭します。その生活を楽しみます。
 初代教会の聖徒たちは、イエス様の再臨を切実に待っていました。使徒1:11。主がすぐにも来るだろうと思ったので、彼らは緊迫感を持って信仰生活をし、福音を伝えました。ところが、初代教会では、いつ来るか分からないからと怠惰な生活をしている人もいました。逆に、皆は、いつか分からないから、与えられた働きや責任に最善を尽くして生きたのです。主が再び来られるとき、主の前に恥じない生き方をしていたのです。
 私たちが生活し、働く場所がどこであっても、そこが、神が私たちを遣わしてくれた所です。ですから、私たちが職場や家庭で働き、学校で学ぶことも、神の仕事をすることになります。私たちが家族や職場の人、友人や隣人のために仕えることも、神に仕えることです。主の働きとして集中して、与えられた働きと学びに没頭していますか。
 主から担わされた働きと責任には、忠実である必要があります。Tコリント4:1〜2。誠実でない場合は、じょうずな仕事や働きをすることはできません。そのことに熱心に集中し、没頭しなければ、熟練した者にはなれません。主の仕事として没頭すれば、その生活の現場がどんな場でも、最高の人生になります。自分の置かれている状況を嘆くのではなく、与えられた環境の中で信仰をもって最善を尽くせば、神が喜んで、祝福してくださいます。
 エジプトの侍従長の奴隷であったヨセフは、他の奴隷とは違って、最善を尽くして誠実に働きました。主人のポテファルは、ヨセフの誠実さと熟練ぶりを見て、その家の管理と財産をヨセフに任せました。創世記39:4。使徒パウロも、キリストのしもべとして、主に仕えるように、善意をもって仕えなさいと勧めています。エペソ6:5〜7。
 私たちは、主が見ておられることを意識しながら、主の仕事をするように誠実に働き、学び、仕えます。神から与えられた使命の現場で働いている人は、自分を通して神の栄光が表されることを思い、利益に関係なく、小さなこと一つ一つにも最善を尽くして誠実に仕事をします。そこに、喜びややりがい感を覚え、生活がわくわくし、楽しみがもたらされます。
 宗教改革者たちは、職業を「ベルーフ、召し」と呼びました。職業を神の召しと考えたからです。聖徒が置かれている状況の中で、神がその人を用いてくださる意味です。私の仕事で神の計画は何だろうかと考え、主の御心が私の人生を介して行われるようにと願います。職場でも、家庭でも、学校でも、その場を神の御心によって、神から委ねられた場と信じて、情熱的に働き、学んで、人生を楽しみます。



箴言22:1 名声は多くの富よりも望ましい。愛顧は銀や金にまさる。
22:2 富む者と貧しい者とは互いに出会う。これらすべてを造られたのは【主】である。
22:3 利口な者はわざわいを見て、これを避け、わきまえのない者は進んで行って、罰を受ける。
22:4 謙遜と、【主】を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。
22:5 曲がった者の道にはいばらとわながある。たましいを守る者はこれらから遠ざかる。
22:6 若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。
22:7 富む者は貧しい者を支配する。借りる者は貸す者のしもべとなる。
22:8 不正を蒔く者はわざわいを刈り取る。彼の怒りの杖はすたれる。
22:9 善意の人は祝福を受ける。自分のパンを寄るべのない者に与えるから。
22:10 あざける者を追い出せ。そうすれば、争いも出て行く。けんかも、悪口もやむ。
22:11 心のきよさを愛し、優しく話をする者は、王がその友となる。
22:12 【主】の目は知識を見守り、裏切り者のことばをくつがえす。
22:13 なまけ者は言う。「獅子が外にいる。私はちまたで殺される」と。
22:14 他国の女の口車は深い穴のようだ。【主】の憤りに触れた者がそこに落ち込む。
22:15 愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。
22:16 自分を富まそうと寄るべのない者をしいたげる人、富む人に与える者は、必ず乏しくなる。
22:17 耳を傾けて、知恵のある者のことばを聞け。あなたの心を私の知識に向けよ。
22:18 これらをあなたのうちに保つなら、楽しいことだ。これらをみな、あなたのくちびるに備えておけ。
22:19 あなたが【主】に拠り頼むことができるように、私はきょう、特にあなたに教える。
22:20 私はあなたのために、勧告と知識についての三十句を書いたではないか。
22:21 これはあなたに真理のことばの確かさを教え、あなたを遣わした者に真理のことばを持ち帰らせるためである。
22:22 貧しい者を、彼が貧しいからといって、かすめ取るな。悩む者を門のところで押さえつけるな。
22:23 【主】が彼らの訴えを弁護し、彼らを奪う者のいのちを奪うからだ。
22:24 おこりっぽい者と交わるな。激しやすい者といっしょに行くな。
22:25 あなたがそのならわしにならって、自分自身がわなにかかるといけないから。
22:26 あなたは人と誓約をしてはならない。他人の負債の保証人となってはならない。
22:27 あなたに、償うものがないとき、人があなたの下から寝床を奪い取ってもよかろうか。
22:28 あなたの先祖が立てた昔からの地境を移してはならない。
22:29 じょうずな仕事をする人を見たことがあるか。その人は王の前には立つが、身分の卑しい人の前には立たない。



ヨシュア記1:7 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。

箴言18:12 人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。

ヤコブ4:6 しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

Tコリント4:1 こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。
4:2 この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。

エペソ6:6 人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、
6:7 人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。

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