2019年12月1日「心を制すること」箴言25:1〜28

序−パスカルの原理で有名なパスカルは、「人間は考える葦である」と言いました。人間の、自然の中における存在としてのか弱さと、思考する存在としての偉大さを言い表したものです。頭が考えることを放ったらかしにしたまま、心が放っておかれると、悲しみや苦しみ、つらいことばかりに目が向くようになるという弱さがあります。しかし、心は制御できるものであり、心を制することができれば人生は幸福に生きられるという偉大さがあります。

T−制御しない心は、城壁のない、打ちこわされた町のよう−28
 人生は、人間関係の中で進むものであり、人は人間関係の中で生きています。人間関係の中で、感情、メンタルは、人生を豊かにもし、辛い苦しいものにもします。今日の箇所は、人間関係における様々な姿勢、言葉について教えています。人間関係の教訓です。面白いものや考えさせられるものもあります。覚えておくと、何かの時に助けになるでしょう。
 今日の箇所の結論が、28節です。「城壁のない、打ちこわされた町のようだ」というのは、どういうことでしょうか。城壁がないなら、町は簡単に敵に打ちこわされてしまいます。心を制することがない、何かのことで心は壊れそうになり、辛く、苦しく、悲しくなります。自分の心を制することしないでそのままにしておくと、思いは否定的、悲観的になり、心もからだも病んでしまいます。人生が崩れることになります。
 私たちは、過去に現実に起こったことについて、怒ったり、悲しんだりします。しかし現在それはどこにもなく、頭の中にしか存在しません。もう実体としてどこにも存在しないものです。それでも、頭の中で考え出すと、まるで目の前にあたかも存在しているかのように嘆いたり、苦しんだりするのです。将来の不安も、現在どこにも存在しないものであり、頭の中で想像する出来事でしかありません。存在しない想像のために現在の自分を苦しめているのです。そんな反応や想像、おかしくないですか。
 感情、メンタルは、人が自然を慈しみ、感動を覚え、喜びや感謝する心もあれば、事件や環境で憂いや苦しみを覚え、妬み憎む心もあります。感情の豊かさは、賜物です。しかし、自分の心を制することがなければ、城壁のない、打ちこわされた町のようになってしまいます。心が崩壊すれば、人生も崩壊してしまいます。それで、箴言4:23では、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ」と命じています。人生のすべてが、心から始まるということです。心が揺れ動いているなら、人生も揺さぶられるしかありません。28節と反対のことを言っている節もあります。「自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる」箴言16:32。ですから、心を治めることができる人は、生活に幸いがあり、勝利することができます。
 しかし、どうでしょう。心を治めることは、易しいですか、難しいですか。本当に難しいです。自分をコントロールできない、自分の心を制することができないという悩みを持つ人が多いそうです。怒り、憎しみ、嫉妬などの感情が抑えられない。辛い過去の出来事をつい思い出してしまう。将来の不安や心配が頭から離れない。自分の失敗や欠点、能力のなさや弱さなどを責めてしまう。そんな嫌な感情が、悪い思考を生み、よくない行動に結びつきます。よくない行動の結果、自分を責めたり落ち込んだりして、ゆううつにもなります。周囲の環境が変わったりすると、心が揺れて、人生が崩れます。

U−イエス様の救い、聖霊の満たしによって制する−エペソ5:18
 人間は、自分自身の心を自分の力で治めることはできません。なぜでしょうか。罪の支配を受けているので、自分の力で自分の心を治めることができないのです。ローマ7:19〜20。ですから、イエス・キリストの十字架による贖いの恵みによって罪から救われる必要があります。だからと言って、イエス様さえ信じれば無条件に心を治めることができるかと言うと、そうではありません。私たちは信仰によって罪から救われましたが、まだ地上にあっては罪の残滓があり、私たちを攻撃し、支配しようとするからです。ローマ7:24〜25。
 罪の支配を抜け出し、打ち勝つ力を得なければなりません。その力は、聖霊によって与えられます。私たちは、自分一人の力で心を治めるのではなく、私の心の中に住んでおられる聖霊の力に頼ることができます。そうすれば、力が注がれます。御霊の支配を受けるとき、初めて罪に打ち勝ち、心を治めることができるようになります。ローマ8:9。でも、イエス様を信じた時から聖霊が住んでいてくださるのに、どうして罪に翻弄されるのですか。心を治めることができないのですか。
 御霊が心の内に住んでいてくださるのですが、いつも聖霊によって心が満たされているとは限らないからです。聖霊の満たしが必要です。心を治める秘訣は、聖霊の満たしです。聖霊の満たしについて、エペソ5:18では、「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい」と言っています。酒に酔うことと御霊に満たされることは、まったく似合わないものです。なぜ、こんな組み合わせになっているのでしょうか。
 酒に酔うことと聖霊の満たしは、まったく違うものなのに、その現象は似ているからです。酒に酔うと、その人の人格が酒の支配を受けることになります。知と情が、酒に左右されるのです。知的には判断力がぼやけ、感情的にはいつもと違う感情を見せることになります。自分の意志で行動していない様子を見せます。過去の災難や失敗ばかり思い出すと、心がそれによって支配されるようになります。一方、聖霊の満たしは、聖霊が人格を支配し統治する状態です。聖霊の力が注がれて初めて、自分の心を治めることができます。聖霊が私の心を治めてくれるのです。救いの感謝とイエス様が共にいてくださる喜びと主の御心で心が一杯になります。
 では、このように重要な聖霊の満たしを、どうして受けることができますか。祈りと御言葉と賛美です。最も重要なのが御言葉です。コロサイ3:16では、御霊の満たしを御言葉の満たしのように説明しています。御言葉で心が満たされると、霊的な信仰生活ができるようになります。御言葉を心に蓄えて黙想する時、聖霊に満たされるようになります。祈りは、御言葉に聖霊の火をともしてくれます。
 反対に、聖霊の満たしの状態を喪失すると、心を治めることができず、心が揺れて、崩れ出します。失敗を繰り返すことになります。イエス様を信じる人は、聖霊がその中に内住しておられます。ヨハネ14:16〜17。天国に入るまで一時も離れません。聖霊の内住は永続的です。しかし、聖霊の満たしは、私たちが御霊に頼らなければ、消滅します。そのような状態では、御霊の力を受けることができず、自分の心を治めることができません。

V−心を治めて生きる−ヨハネ16:33
 ですから、聖霊の満たしは、本当に重要なことです。私たちが聖霊に満たされ、心を治めるようになる時、どのような祝福を受けるようになるのでしょうか。心に勇気が生じます。人生を生きていると苦難と逆境の状況が何度も迫ってきます。そのたびに恐れや不安が私たちの心を襲って来ます。現実に失敗も多くします。しかし、御言葉を心に蓄えて黙想してみると、御言葉を握って祈ってみると、聖霊に満たされて、心の中に勇気が湧いてきます。逆境を打ち破り、勝利するようになります。ヨハネ16:33。
 御霊の力によって心を制することができると信じてください。自分が嫌な感情になるのは、問題のせいや人のせいや環境のせいだと言っていては、心を制することができません。諦めたり、何かのせいにしたり、自分を責めたりしないで、自分には思いと感情を制することができないが、聖霊の力によってできると信じるのです。イエス様を十字架に渡されるほどに私を愛してくださった神様は、私を癒して、新しく生きるようにしてくれると確信するのです。ローマ8:32。自分の心を制することができるようになって、もっと幸せになることができると考えるのです。
 はじめはなかなかうまくできなかったり、たまに感情が押えられないこともあるでしょう。そんな時には、イエス様の十字架を思い出してください。Tペテロ2:24〜25。簡単にあきらめたりしないで、自分が変えられ、成長できることを信じて、御霊に満たされることを続けましょう。
 否定的悲観的な感情になるのは、物事の受け取り方によります。それは条件反射的、習慣的なものです。怒りなどの感情は突発的なところがありますが、悲しみや悔しさや憂いなどの感情は持続的なことが多いです。自分の否定的悲観的な感情の原因は、自分が悪い考えをしているのではないかと自問してみてください。その事を繰り返し思い出していないか。事実でないことを想像していないか。関連する事まで連想していないか。それに気づいたことをきっかけに、そのような感情から抜け出しましょう。考えても仕方のないことは、主にゆだねます。
 心を制するために、今自分が何を考えているか知ることです。嫌な感情になっているなら、御霊によって癒される、主の恵みによって守られると信じます。私は主に愛されている、私は祝福を受けられる、私は幸せに生きることができると思い出すのです。祈りと賛美をささげ、御言葉で心を一杯にします。私の思いと考えが変えられます。こうして、心を制することになります。



箴言25:1 次もまたソロモンの箴言であり、ユダの王ヒゼキヤの人々が書き写したものである。
25:2 事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。
25:3 天が高く、地が深いように、王の心は測り知れない。
25:4 銀から、かなかすを除け。そうすれば、練られて良い器ができる。
25:5 王の前から悪者を除け。そうすれば、その王座は義によって堅く据えられる。
25:6 王の前で横柄ぶってはならない。偉い人のいる所に立っていてはならない。
25:7 高貴な人の前で下に下げられるよりは、「ここに上って来なさい」と言われるほうがよいからだ。あなたがその目で見たことを、
25:8 軽々しく訴えて出るな。そうでないと、あとになって、あなたの隣人があなたに恥ずかしい思いをさせたとき、あなたはどうしようとするのか。
25:9 あなたは隣人と争っても、他人の秘密を漏らしてはならない。
25:10 そうでないと、聞く者があなたを侮辱し、あなたの評判は取り返しのつかないほど悪くなる。
25:11 時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ。
25:12 知恵のある叱責は、それを聞く者の耳にとって、金の耳輪、黄金の飾りのようだ。
25:13 忠実な使者はこれを遣わす者にとって、夏の暑い日の冷たい雪のようだ。彼は主人の心を生き返らせる。
25:14 贈りもしない贈り物を自慢する者は、雨を降らせない雲や風のようだ。
25:15 忍耐強く説けば、首領も納得する。柔らかな舌は骨を砕く。
25:16 蜜を見つけたら、十分、食べよ。しかし、食べすぎて吐き出すことがないように。
25:17 隣人の家に、足しげく通うな。彼があなたに飽きて、あなたを憎むことがないようにせよ。
25:18 隣人に対し、偽りの証言をする人は、こん棒、剣、また鋭い矢のようだ。
25:19 苦難の日に、裏切り者に拠り頼むのは、悪い歯やよろける足を頼みとするようなもの。
25:20 心配している人の前で歌を歌うのは、寒い日に着物を脱ぐようであり、ソーダの上に酢を注ぐようなものだ。
25:21 もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。
25:22 あなたはこうして彼の頭に燃える炭火を積むことになり、【主】があなたに報いてくださる。
25:23 北風は大雨を起こし、陰口をきく舌は人を怒らす。
25:24 争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい。
25:25 遠い国からの良い消息は、疲れた人への冷たい水のようだ。
25:26 正しい人が悪者の前に屈服するのは、きたなくされた泉、荒らされた井戸のようだ。
25:27 あまり多くの蜜を食べるのはよくない。しかし、りっぱなことばは尊重しなければならない。
25:28 自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ。



Tコリント4:40 ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい。

箴言4:23 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。

箴言16:32 怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。

ローマ7:19 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。
7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。

ローマ8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

エペソ5:18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。

コロサイ3:16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

ローマ8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

Tペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

ヨハネ16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

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