2019年12月8日「愚か者にならないで」箴言26:1〜28

序−アドベントの時期を迎えていますが、イエス様は人を救ってただ新しい命を与えるために来られただけではなく、その命を持って豊かな人生を生きるようにとこの世に来てくださいました。救われた私たちは、御言葉を学んで、造り変えられることを望みます。まずは、きょうの箇所を通して、愚か者から知恵ある賢い者に変えられることを学びます。

T−自分を知恵のある者と思っている人−12,4〜5
 今日の箇所の前半には、繰り返し「愚かな者」と言う言葉が登場しています。1〜12節。2節以外11回です。私たちは、どれほど愚かなのでしょうか。でも、人は、自分を愚か者だと思っているのでしょうか。実は、世の多くの人々は、自分を賢い者だと思っているそうです。使徒パウロの目にも、人々は「自分では知者であると言いながら、愚かな者となっている」と映りました。ローマ1:22。
 ですから、まず愚か者の特徴は、「自分を知恵のある者と思っている人」です。12節。自分を知恵のある者と思っている人より、自分を愚かな者と分かっている人のほうが、まだ望みがあるというのです。なぜでしょう。自分を知恵のある者と思っている者は、肉の自信を持って高慢になっているので、霊的に造り変えられる余地がありません。一方、自分を愚かな者だと思って変わろうとする者は、造り変えられる望みがあります。賢いと思う人は頑なで聞く耳を持ちませんが、自分は愚かだと思う人は、柔軟で聞く耳があります。
 イエス様に対して、いつも敵対したパリサイ人という人々がいました。彼らは、自分たちのことを知恵のある者、賢い者だと自負していました。ところが、イエス様が教えられると、知恵のある者と思っている自分たちこそ愚か者であることを明らかにされたので、腹を立てました。マタイ15:12,ヨハネ7:23。しかし、イエス様は、彼らは、自分は霊的に盲目であるのに、自分たちは見えると言っているから罪があると言われました。ヨハネ9:41。彼らの変わらない頑なさを嘆かれました。
 海外のある大学の最新研究によると、「怒りやすい人は自分のことを実際よりも賢いと考えている」ことが判明しています。「怒りやすい人ほど、より自己愛幻想が強く、自身の知力を高めに見積もっている」と言っています。そういう人に、「その愚かさにしたがって答える」と、どうなりますか。争いになるでしょう。憎まれることになるでしょう。
 あなたは、そのような者にどう答えていますか。今日の箇所では、矛盾しているようなことを言っています。4〜5節。愚かな者に対する答え方を教えています。いつ沈黙を守り、いつ答えすべきかを知ることが知恵です。愚かな者と議論すべきではありません。イエス様は、ご自分を陥れようとするパリサイ人の質問や批判に対しては、愚かさにしたがって答えないで、「あなたがたの中で罪のない者が最初に石をなげなさい」とか、「カイザルのものはカイザルに、そして、神のものは神にかえしなさい」と見事に答えられました。ヨハネ8:6〜7,マタイ22:15,21。聞く耳のある者には、その愚かさを指摘して、教えられました。マルコ4:9〜10。
 哲学者ソクラテスは、「ソクラテスより知恵のあるものはいない」というデルポイの神託を受けましたが、それを確かめるために当時知者と言われた人々と対話を重ね、「無知の知」の真理に至りました。神託は、愚かであるのに賢い者だと思っている彼らより、無知であることを自覚している自分の方が少しは賢いということなのだろうと理解したのです。ソクラテスは、「無知の知」すなわち「知らないことを自覚する」ということを哲学の出発点としました。そうです。人は、他の人よりある部分で評価されると、自分がすべての部分で賢いと錯覚するのです。
 自分の愚かさを自覚して、御言葉に聞き従う者、霊的造り変えを願う者こそ、自分を賢い者と思っている人より望みがあります。自分には罪がないと思う者には、救いも造り変えもありませんが、自分の罪を言い表し悔い改める者は、罪赦され造り変えられます。Tヨハネ1:8〜9。自分の無知と無力さを認めて、自分の罪と過ちを認めて、神のあわれみと恵みを求める者に希望があります。イエス様の例え話で、自分を義と考えているパリサイ人たちは、神の恵みを受けませんでしたが、自分の罪を告白する取税人は、神の恵みを受けました。ルカ18:9〜14。

U−自分の愚かさを繰り返す−11
 11節には、面白い表現があります。調べてみると、確かに犬の習慣に、自分が吐いた物に戻って来るようなことがあるようです。人は、自分が吐いた物を舐めたり、食べたりしません。でも、「自分の愚かさを繰り返す」というのは、そういうことと同じだというのです。どれほど愚かなことでしょう。人は、しばしば愚かさの繰り返しに終止符を打てずに、ずっとぐるぐると同じことを繰り返すことがあります。政治の世界でも、社会でも、個人の生活でも、愚かさを繰り返しています。
 賢い者と愚かな者の違いは、失敗を通して学ぶか、その失敗を繰り返すかということです。誰でも、失敗や間違いをしてしまいます。ただその時、その失敗や間違いを通して学ぶことが大事です。ビジネスの世界には、失敗学というものがあります。最近は、こうすれば成功するという本ではなく、失敗から学ぶという本が売れています。成功の陰には、必ず失敗の資産があります。その失敗を受け入れることから、同じ失敗を繰り返さないようにすることが賢い者になる第一歩です。
 犬が自分の吐いたものに戻るなんて信じられませんが、私たちは、自分でも理解できない行動をとっているのです。なぜ、失敗や過ちを繰り返し、自分の愚かさを繰り返すのでしょうか。救いの歴史にパターンが繰り返されていることを発見することができます。イスラエルの民が偶像に仕える過ちを犯します。神は彼らを戒めるため周辺国を用いてイスラエルを打たれます。イスラエルの民がその苦しみのために神に立ち返り、叫びます。神が祈りを聞き、彼らを助け出します。しかし、神の驚くべき救いを体験したにもかかわらず、やがて彼らは過ちを繰り返すということです。
 イエス様の十字架を信じて救われた者は、変わることができます。Uコリント3:18。救われた人は、造り変えられ、恵みと祝福を受けることができます。心理学者アドラーによれば、過去の出来事は関係なく、それは単なる事実に過ぎず、そこに 「どんな意味づけをしたのかによる」  と考えます。問題は 「何があったか」 ではなく 「どう解釈したか」なのです。過去や他人のせいにしないで、自分が愚かだったと悟って、新しくやり直すことです。人は、こうして変わることができます。
 ですから、思考回路そのもの、つまり考え方や価値観を改善しなければいけません。御言葉の価値観通り生きてみる必要があります。愚かな者は、御言葉を口にするだけで、役に立たないか害にさえなります。7,9節。今後の人生をどう生きるかについて、過去は関係ないのです。  自分の人生を決めるのは、「今、ここに生きる自分」しかいないのです。私は主に救われたのだから、霊的に造り変えられたいと願うことです。そうしなければ、昨日までの愚かな自分を、そのまま続けることになるでしょう。

V−誉れを受けられるように−1,8
 愚かさを続けていたら、どうなるでしょう。誉れ、祝福を受けられないということです。1,8節。誉れが愚かな者にふさわしくないので、夏の雪、刈り入れ時の雨のようだと極端な例えで強調しています。夏に雪が降って収穫時期に雨が降ったら、農業は台無しになって、人々の生活はダメージを受けることになります。愚かな者に誉れを与えるのは、石投げ器から石を飛ばすように、他の人の危険となると言うのです。8節。愚かな者は、誉れや祝福を受けるに適さないというのです。愚かさのゆえに、誉れ、祝福は受けられないというのです。
 そうです。愚かさのゆえに、痛みや問題に出会います。愚かさのゆえに、訪れる問題を的確に受け取れず、人生がごたごたして、きしんできます。イエス様を信じて救われているのに、どうして恵まれないのでしょう。祝福を受けられると約束されているのに、なぜ受けられないのでしょう。環境や誰かのせいですか。神様が薄情なのですか。神様は、私たちを祝福してあげたいのに、自分が愚かな者になっているから、恵みと祝福を受けられないのです。
 聖書で言う「愚かな者」とは、世で言われるように、知識のない者を言っているのではありません。仮に知識や知恵があったとしても、よく用いられません。7,9節。愚かな者とは、御言葉の価値観を知らず、神様のなさることを認めない者です。主に拠り頼むことを否定して、自分の知識と知恵と経験に拠り頼んで、肉の思いで判断します。主に拠り頼んで生きましょう。神様の祝福を受けて、恵みの雨を降り注いでいただきましょう。
 「知恵のある者は誉れを受け継ぎ、愚かな者は恥を得る」と宣言しています。箴言3:35。箴言の言う「知恵ある」とは、どういうことでしたか。主を恐れることです。箴言9:10。天地万物を創造し、私たちに御子による救いを与えてくださった偉大な神を恐れて、信頼して、ただ御言葉に聞き従います。イエス様の十字架を信じて、神の民となった者を祝福してくださり、造り変えてくださると約束されています。愚かな者から御言葉に生きる賢い者へと変えられたく願います。エペソ5:17。



箴言26:1 誉れが愚かな者にふさわしくないのは、夏の雪、刈り入れ時の雨のようだ。
26:2 逃げる雀のように、飛び去るつばめのように、いわれのないのろいはやって来ない。
26:3 馬には、むち。ろばには、くつわ。愚かな者の背には、むち。
26:4 愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。
26:5 愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう。
26:6 愚かな者にことづけする者は、自分の両足を切り、身に害を受ける。
26:7 愚かな者が口にする箴言は、足のなえた者の垂れ下がった足のようだ。
26:8 愚かな者に誉れを与えるのは、石投げ器に石をゆわえるようだ。
26:9 愚かな者が口にする箴言は、酔った人が手にして振り上げるいばらのようだ。
26:10 愚かな者や通りすがりの者を雇う者は、すべての人を傷つける投げ槍のようだ。
26:11 犬が自分の吐いた物に帰って来るように、愚かな者は自分の愚かさをくり返す。
26:12 自分を知恵のある者と思っている人を見ただろう。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。
26:13 なまけ者は「道に獅子がいる。ちまたに雄獅子がいる」と言う。
26:14 戸がちょうつがいで回転するように、なまけ者は寝台の上でころがる。
26:15 なまけ者は手を皿に差し入れても、それを口に持っていくことをいとう。
26:16 なまけ者は、分別のある答えをする七人の者よりも、自分を知恵のある者と思う。
26:17 自分に関係のない争いに干渉する者は、通りすがりの犬の耳をつかむ者のようだ。
26:18 気が狂った者は、燃え木を死の矢として投げるが、
26:19 隣人を欺きながら、「ただ、戯れただけではないか」と言う者も、それと同じだ。
26:20 たきぎがなければ火が消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ。
26:21 おき火に炭を、火にたきぎをくべるように、争い好きな人は争いをかき立てる。
26:22 陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく。
26:23 燃えるくちびるも、心が悪いと、銀の上薬を塗った土の器のようだ。
26:24 憎む者は、くちびるで身を装い、心のうちでは欺きを図っている。
26:25 声を和らげて語りかけても、それを信じるな。その心には七つの忌みきらわれるものがあるから。
26:26 憎しみは、うまくごまかし隠せても、その悪は集会の中に現れる。
26:27 穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、石をころがす者は、自分の上にそれをころがす。
26:28 偽りの舌は、真理を憎み、へつらう口は滅びを招く。


ローマ1:22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、

Tヨハネ1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

箴言3:35 知恵のある者は誉れを受け継ぎ、愚かな者は恥を得る。

箴言9:10 【主】を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。

エペソ5:17 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。


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