2019年12月29日「誠実に生きるために召された」箴言28:1〜28

序−あなたには素晴らしい資産があると言われたら、どうですか。土地や財産という有形の資産ではありません。それらも必要でしょうが、もっと重要なのは、無形の資産です。たとえ有形の資産が少なくても、精神的資産が豊かであれば、その人生は価値ある美しい人生になります。その無形の資産の1つが、きょうの主題である「誠実」です。

T−誠実でないならば−6,10,18
 6節をみると、「貧しくても、誠実に歩む者は、富んでいても、曲がった道を歩む者にまさる」と言っています。貧しくても誠実な人は、不誠実な金持ちにまさるというのです。いくら有形の資産が多いとしても、精神的な資産を持っていないならば、その有形資産は有効性を失ってしまうからです。10,18節の潔白も、他の訳では誠実と訳されています。18節では、「潔白な生活をする者は救われ、曲がった生活をする者は墓穴に陥る」と言われています。つまり、誠実な者は救いの恵みを享受し、不誠実で偽り者は滅びを招くというのです。
 18節の曲がった生活とは、誠実の反対の言葉です。誠実な信仰生活をしないと、神の御旨から曲がって来ます。そこから罪が生じます。19節にも似たような言葉があります。「むなしいものを追い求める」とは、幻想、ファンタジーを追い求めることです。私たちは、神様がくださった夢、ビジョンを追い求める者です。しかし、誠実でない場合は、ファンタジーを追い求めることになるでしょう。
 10節には、人の2つの姿が表現されています。1つは、「正直な人を悪い道に迷わす者」です。人には、奇妙な心理があります。それは、他の人が自分よりもよくなることを望んでいないという心理です。他の人が自分よりも褒められ、評価されることを我慢できないという心理です。これをカインコンプレックスと言います。ユングが聖書のカインとアベルの事件を基にした用語です。創世記4:3〜8。カインが、神様が自分のささげ物には目を留めず、弟アベルのささげ物に目を留められたのを妬んで、怒って、弟アベルを殺したという事件です。
 箴言で対比される悪者は、誠実な者、正直な者に対して、その良い姿や評価されることをそのまま見過ごせず、我慢がならない人々です。それで、悪者は、人を妬み、憎むか、悪の道に誘うかをするのです。人を自分と同じレベルに落として、褒められなければ安心するのです。このカインコンプレックスというのは、兄弟で親の愛情や注目、承認や称賛を奪い合うことから始まり、友達や同僚など様々な場面で人と比べる時に起こります。周りからどう評価されているのかが気になり、承認欲求をし、そのために人を妬み、人を攻撃するようになるのです。承認されなければ、自他ともに傷つけることになります。まさに「自分の掘った穴に陥る」のです。
 子どもは本来、自分だけを見ていてほしいし、親の愛情を独り占めしたいものです。そのことを親はよく理解して、一人ひとりの子に接しなければならないと言われます。小さいころに、「自分は愛された」という実感を持てなかった子は、後に三者間の人間関係を築くのが難しくなるそうです。一対一ならうまくいくのに、三者になると、どうしてもうまくいかないのです。人と比べてしまい、注目や賞賛を独り占めにしようとするからです。
 ですから、イエス様を通して神の愛を受けなければなりません。神は、御子イエス様を十字架に渡されるほど私を愛された。ヨハネ3:16。神は、私を「あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している」と言ってくださる。イザヤ43:4。イエス様を信じて、救われた自分は、そういう存在なのだと確信する時、私たちの心は健康になり、平安と寛容が生じて来ます。

U−誠実に生きる−10,13,19〜20
 10節のもう1つの姿は、何事にも誠実に生きる人です。誠実というのは、私利私欲をまじえず、真心をもって人や物事に対することです。私たちは、誰に誠実でなければならないのでしょうか。
 まず、自分自身に対してです。意外に思われるかもしれませんが、自分に誠実でないことが問題となります。体面からでしょうか、ないものをあるかのように、できないことをできるかのようにします。本当の自分を受け入れないのです。自分に誠実であることは、自分のそのままを受け入れる姿勢です。この自分に対して不誠実な姿勢は、自分を不安定にします。自分を受け入れられないのですから、平安がありません。自分を望むように評価しない人に対して不満を持ったり、攻撃的になったりします。自分のできないこと自分にないことを人のせいにするようになります。自分の罪を認めて、誠実に主に告白できることが救いであり、恵みです。13節。
 そして、他の人に対して誠実でなければなりません。私たちは、人間関係の中で生きています。世間では、人に迷惑をかけないで、人と関わらないで生きるのが現代人のイメージのようですが、誠実ではありません。自分の責任を果たし、自分だけよければいいというのは、利己的な姿であり、誠実な姿ではありません。人が間違っている場合には心が痛み、人に不幸な問題が来れば悲しむのです。ですから、一緒に泣いてくれて、心痛めてくれるのが誠実です。ローマ12:15。自分の不誠実も認めて、自分の責任を振り返ることが、まさに誠実です。
 何と言っても、神の前に誠実な人が求められます。ヨシュア24:14,ホセア6:6。何ごとでも神様からの賜物であり、恵みであることを知っていれば、それが誠実にならせます。神様と自分の関係ですから、人と比べる必要はありません。主から委ねられて自分の責任や仕事を誠実に果たすだけです。それが、忠実に働くことです。20節。
 でも、誠実に生きて大丈夫なのかと心配しますか。確かに、ずるい人々の横行する世の中にあって、誠実な人は軽く見られ、損な役割をさせられ、貶められることがあるかもしれません。誠実にすることで、労苦もするでしょう。でも、人としてのイエス様は、罵られて、嘲られようとも、自分の人生に十字架刑という苦しみが待ち受けていようとも、誠実に生き抜かれたではないかと思い出すのです。Tペテロ2:23〜24。そうだ、誠実であり続けよう。誠実で生きて大丈夫だと新たな思いで現場に臨むことができるようになります。私たちが召されたのは、誠実に生きるためです。
 何と、今日の箇所では、誠実な者が祝福や幸いを得ると教えています。貧しくても誠実に歩む者は、曲がった道を歩む金持ちにもまさるのです。6節。誠実な人は幸せを享受します。10節。誠実に生活する者は、問題や窮状から助け出されます。18節。忠実な人は、誠実に働き、多くの祝福を受けます。19〜20節。
 いつの時代でも誠実には力があります。誠実には、仕事を達成させる力があります。19節。誠実は、人に受け入れられます。誠実は才能に優ります。誠実は、人生を豊かにする大きな資本です。世を生きて行くうえで、最も優れた処世術が誠実だと言っても過言ではありません。誠実は、私たちの重要な資産です。私たちは、自分の務めや仕事、責任や立場を誠実に受けとめて、揺れ動くことなく労苦する人になりましょう。Tコリント15:58。

V−誠実でなければならない理由−エレミヤ31:3, ヨハネ1:12
 そもそも私たちが誠実でなければならない根本的な理由があります。それは、私たちが誠実な神の子どもだからです。ヨハネ1:12。神様は私たちを愛し、誠実を尽くし続けられるお方です。エレミヤ31:3。誠実な神様は、約束通り、御子イエス様を世に生まれさせ、私たちの救いのためにイエス様を十字架に渡されました。使徒2:23。イエス様は、きのうもきょうも、いつまでも変わることがありません。ヘブル13:8。私たちは、そのような誠実であられる神の子どもとされています。私たちは、絶対に誠実で変わることのないイエス様に仕え、主に従って生きる者です。ですから、私たちは、当然誠実なければならないのです。この救いの恵みに応えて。
 神はこのように、自分自身の救いのご計画に誠実であられます。ですから、私たちに対しても誠実であり続けます。あまりにも不足して、愚かで、時には不誠実な私たちに対してさえも、誠実でおられます。私たちは、どうでしょうか。神と人とに対して真心を果たさず、神と隣人に正しく仕えず、真理の言葉を追うより、世界の曲がった価値に追い求める時が多いではないでしょうか。神とその言葉の前にどれほど誠実でしょうか。
 驚くべきことは、神はそのような不誠実な神の民に対しても、誠実であり続けておられます。偽りと我欲と醜さの中にある聖徒に対しても、神の約束は変わることがありません。イエス様が代わりに十字架にかかってくださったからです。何度も離れ、背を向けたにもかかわらず、まだ神の子どもと認めておられるのです。信じられないほど神は誠実であられ、信じられないほどの神の愛です。
 私たちに対して神が驚くべき誠実であられることによって、私たちはこのように救いの恵みを享受して、神の子としての身分を維持されているのに、どうして神の御前に誠実でないことができるでしょうか。私たちは、イエス様の救いによって、神の偉大な誠実を覚えて、神と人との前に誠実であることができます。私たちには、誠実という素晴らしい資産があります。仕事でも勉強でも人間関係でも、誠実という資産を用いて生きましょう。誠実であられる神の子どもとされていることを覚えて、誠実に生きることを願います。ミカ6:8。



箴言28:1 悪者は追う者もないのに逃げる。しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい。
28:2 国にそむきがあるときは、多くの首長たちがいる。しかし、分別と知識のあるひとりの人によって、それは長く安定する。
28:3 寄るべのない者をしいたげる貧しい者は、押し流して食物を残さない豪雨のようだ。
28:4 おしえを捨てる者は悪者をほめる。おしえを守る者は彼らと争う。
28:5 悪人は公義を悟らない。【主】を尋ね求める者はすべての事を悟る。
28:6 貧しくても、誠実に歩む者は、富んでいても、曲がった道を歩む者にまさる。
28:7 おしえを守る者は分別のある子、放蕩者と交わる者は、その父に恥ずかしい思いをさせる。
28:8 利息や高利によって財産をふやす者は、寄るべのない者たちに恵む者のためにそれをたくわえる。
28:9 耳をそむけておしえを聞かない者は、その者の祈りさえ忌みきらわれる。
28:10 正直な人を悪い道に迷わす者は、自分の掘った穴に陥る。しかし潔白な人たちはしあわせを継ぐ。
28:11 富む者は自分を知恵のある者と思い込む。分別のある貧しい者は、自分を調べる。
28:12 正しい者が喜ぶときには、大いなる光栄があり、悪者が起き上がるときには、人は身を隠す。
28:13 自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。
28:14 幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。
28:15 うなる雄獅子、襲いかかる熊、寄るべのない民を治める悪い支配者。
28:16 英知を欠く君主は、多くの物を強奪する。不正な利得を憎む者は、長生きをする。
28:17 流血の罪に苦しむ者は、墓まで逃げるが、だれも彼をつかまえない。
28:18 潔白な生活をする者は救われ、曲がった生活をする者は墓穴に陥る。
28:19 自分の畑を耕す者は食糧に飽き足り、むなしいものを追い求める者は貧しさに飽きる。
28:20 忠実な人は多くの祝福を得る。しかし富を得ようとあせる者は罰を免れない。
28:21 人をかたより見るのは良くない。人は一切れのパンで、そむく。
28:22 貪欲な人は財産を得ようとあせり、欠乏が自分に来るのを知らない。
28:23 人を責める者は、へつらいを言う者より後に、恵みを得る。
28:24 自分の父母の物を盗んで、「私は罪を犯していない」と言う者は、滅びをもたらす者の仲間である。
28:25 欲の深い人は争いを引き起こす。しかし【主】に拠り頼む人は豊かになる。
28:26 自分の心にたよる者は愚かな者、知恵をもって歩む者は救われる。
28:27 貧しい者に施す者は不足することがない。しかし目をそむける者は多くののろいを受ける。
28:28 悪者が起こると、人は身を隠し、彼らが滅びると、正しい人がふえる。



創世記4:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。
4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ヨシュア24:14 今、あなたがたは【主】を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、【主】に仕えなさい。

ホセア6:6 わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。

Tペテロ2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

Tコリント15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

エレミヤ31:3 【主】は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。

ミカ6:8 主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。【主】は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。


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