小グループで聖書を学ぶ

3 宣教の言葉の愚かさを通して(Tコリント1:18〜25)

「心の門を開いて」

 今日、神学は進み多くなっても十字架がなく、信仰の話しに道徳論や幸福論はあっても十字架がない、と言われます。コリント教会の人々が争っていた根本の原因も、十字架の理解にありました。私たちの信仰生活と私たちの心には十字架があるでしょうか。十字架という言葉を聞いて、心に感激や愛があふれるでしょうか。

「御言葉の種を蒔こう」

1 神の御子イエス様が人となって世に来られ、私たちを罪と滅びから救うために、私たちの身代わりとなって十字架にかかられた、というすばらしい福音、この十字架のことばが受け取る人にとっては、まったく違って来ると教えています。どんな違いですか。
・18節/


2 「十字架のことばは、救いを受ける私たちにとっては、神の力となった」という「力」とは、デュナミス、ダイナマイトの語源です。イエス様が私の救いのために十字架にかかられたと信じる時、十字架のことばは偉大な力となります。イエス様の十字架を信じ、御子を十字架に渡された神の愛に心を向けた者には、十字架のことばは人生を変えるダイナマイトなのです。あなたにとって十字架の福音が、そのような力となっていますか。



3 十字架の言葉は「滅びに至る人々には愚か」だ言っています。彼らが十字架のことばを愚かなもの、たわ言として受け取ったので、救いにあずかることなく滅んで行くということです。人を滅びから救うすばらしい十字架の言葉が、どうして知恵のある人にとって愚かなものとなるのでしょうか。
・19~20節/


4 イザヤの時代、「我々は神の民だ」と威張っていたのですが、民の心は神様から離れており、自分たちの考え方や思い、習慣を自分の神としていました。だから、高慢な人の知恵は、人を愚かにすると言われたのです。コリント教会に争いを起こしていた人々も、また19世紀福音を曲げ、教会をかき回した自由主義神学者たちも、人の知恵や哲学を中心にしていました。これを知って、どんなことを思いますか。(参考/伝道者1:9)
・イザヤ29:13〜14/


5 十字架の福音を愚かだ、と高慢な知者たちは言いました。それでも、神様は、どうすることと定められたのですか。証しをする私たちにどんな励ましとなりますか。
・21節/


6 愚かと見られても、愚かだと言われても、この十字架のことばが人を救う神の知恵なのです。神様は、むなしい世の知恵と哲学のただ中にひとり子を遣わし、十字架の救いを与えてくださいました。愚かだと言われても、この十字架の福音を聞いた者が信じて救われ、人生が変わるのです。証しをする私たちに、十字架のことばを愚かだとする世の知者にはどんなタイプがあると教えていますか。
・22〜23節/


7 ユダヤ人は、イエス様を見たとき、躓きを覚えました。メシヤは栄光のメシアとして自分たちの国を再興してくれるはずだ、と勝手な願望を抱き、十字架につけられた時、降りて来たら信じるのに、と言いました。私たちの内にも、奇跡を求めたり、自分勝手な願望を抱いて、イエス様の十字架に躓いていることはありませんか。



8 知恵を愛して、追求するギリシャ人にとって、もっとも愚かに見えることは、自分の頭に入らないことでした。神が肉体をとって人となられて、十字架に死ぬのが不合理で、非論理的だとしたのです。私たちの内にも、十字架の福音に力を感じないことはありませんか。



9 物事は、どこに基準を置くかで、違って来ます。近代の有名な哲学者は、「神の存在を論理で説明しようとしても信仰は得られない、神と向き合うことによって神の存在に気付く、神は認識の対象ではない、信仰する者が神の存在を確認することができる」と言いました。十字架の前に謙遜になるなら、十字架の主が自分に迫って来ます。どんな人にとって、十字架のイエス様は、神の力となると言っていますか。
・24〜25節/
・ローマ1:16/

「命の実を刈り取ろう」

 しるしを求める信仰は、自分の願い通りにしてくれと熱心に求めますが、神様に聞き従おうとはしません。知恵を求める信仰は、勉強を熱心にしますが、自分の知恵が心の中心を占め、高慢で争いや妬みに引き回されます。「宣教のことばの愚かさを通して」救われた者は、十字架が中心の信仰生活となります。あなたの信仰生活と心の中心には十字架がありますか。十字架の言葉を学んで、あなたの思いや感情にどんな変化がありましたか。

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