小グループで聖書を学ぶ

4 誇る者は主を誇れ(Tコリント1:26〜31)

「心の門を開いて」

 人の中にある最も根源的な罪の一つは、自己主張です。また、人に認められたいという欲望です。それは、私たちにもある肉の性質です。そのために、不満を持ち、怒り、争うことになります。コリントの人々も、自分を大きく見せたかった、誇りたかった、人の評価を得たかったのです。それで、自己主張し、言い争っていたようです。今日のところは、そこに気付かせ、そこから抜け出る処方箋を与えています。

「御言葉の種を蒔こう」

1 まず、忘れていることに気付かせています。これを忘れているために、罪に陥り、争っていたからです。それは何ですか。それは、どういうことですか。(参考/ヨハネ15:16)
・26節/


2 「召し」とか「選び」の教理は、根本的な大切なものです。自分がイエス様を選んで信じたのではなく、主が自分を救いに召しだしてくださって、信じるようにさせてくださったということです。私たちは、どんな時に、どんな状況から救われたのでしょう。その時の自分はどんな人だったのでしょうか。分かち合いましょう。



3 コリント教会には、学者や権力者、高貴な人は少なく、多くは奴隷身分であり、自由人だとしても、貧しく、悲惨な境遇の者たちでした。奴隷は、主人の元で威張ることも、自己主張することも、評価を求めることもまったくできませんでした。ですから、その召しを忘れるようになると、聖徒たちの中で、自己主張し、怒り、不満を抱き、言い争うようになったようです。自己主張し、認めてほしいと思うあまり、不満を抱いたり、怒ったり、争うことはないでしょうか。



4 貧しい身分や悲惨な境遇だから救われたのでなく、理由があってそのような人々を敢えて選んだと言っています。その理由は何ですか。そのために、どのような人と対比していますか。
・27〜28節/


5 コリントは哲学と雄弁と商業で有名でした。それがコリント人には誇りでした。しかし、それらが同時にコリントを退廃させ、混乱させていました。人々は高慢になり、評価を求めて自己主張し、互いに言い争っていました。そこには恵みも幸いもありません。それが、教会にも入り込んでいたのです。知恵ある者や強い者をはずかしめるために、愚かな者や見下されている者を選ばれたというのですが、それを知って、思うことは何ですか。(参考/イザヤ43:4, ヨハネ1:12)



6 愚かな者や見下されている者を選ばれたのは、知恵ある者や強い者をはずかしめるためだけでなく、何のためだと言っていますか。なぜできないのでしょうか。
・29節/


7 愚かな者や弱い者、見下されている者、無に等しい者を選ばれたということを知っても、自分を誇り、自己主張し、人の評価を得たいと汲々し、憤慨し、争うことができるでしょうか。プライドが傷つけられた、というプライドを主の前に見せられるでしょうか。私は価値がないと主の十字架の前で言えるでしょうか。



8 どうしても、肉の思いでは、誇りたいのです。コリントの人々も、互いに自分の知恵を誇りました。そこで、この箇所の結論は、誇ることの出来る一つのことを教えています。それは、信仰的で健全なことなのですが、何ですか。(参考/エレミヤ9:23〜24)
・31節/


9 誇れる内容について書いています。「キリストは私たちにとって義と聖めと贖いとなられた」とは、どういうことですか。(参考/Tコリント6:20, Uコリント5:17)
・30節/

「命の実を刈り取ろう」

 義とは、イエス様が私の罪と滅びをその身に負って十字架にかかってくださったので、罪が赦されたということです。聖めとは、イエス様の十字架の救いによって、罪なしとみなしていただいき、神様のものとされたことです。贖いとは、私の救いのためにイエス様がその身をもって代価を払われたことを言います。Tコリント6:20。つまり、ただただイエス様の十字架の救いは、すばらしい一方的な恵みです。これによって、私たちは神様から力と祝福を受けて、新しい命に生きることができるようになりました。これは、誇るべき救いの恵みです。この誇りをどのようにあらわしますか。今日の学びを通して示されたこと、導かれたことを分かち合いましょう。エレミヤ9:24

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