小グループで聖書を学ぶ

16 恵みの後の試練(Tコリント10:1〜13)

「心の門を開いて」

 歴史を学ぶと我々が歴史から学んでいないことが分かる、と有名な哲学者は言っています。過去の出来事は、現代に教訓や助けを与えてくれます。でも、歴史を忘れた人々は、同じ過ちを繰り返す傾向があります。私たちも、出エジプトの民の例から学ぶことにしましょう。

「御言葉の種を蒔こう」

1 コリントの人々の思い違いとは、洗礼を受け、聖餐に与っていることが、罪の誘惑や患難から免れるだろうと考えていた点です。ちょうど予防注射をした人々が感染の心配をしないようなものです。そこで、使徒パウロは、イスラエルの歴史を引用しています。どんな出来事ですか。
・1〜4節/


2 コリントの聖徒たちの洗礼と聖餐になぞらえて、「雲と海とで、モーセにつくバプテスマ」「みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました」と説明しています。出エジプトの民の特筆すべき体験は、エジプトでの奴隷状態から奇跡的に助け出されたということです。これは、クリスチャンのどんな体験になぞらえられていますか。
・ローマ8:2,6:17〜18/


3 エジプトで奴隷状態から解放された時の食物も水も、すべて神様から来たものであり、彼ら自身から出たものは何ひとつありませんでした。神様の一方的な恵みであることが強調されています。イエス様の十字架による救いの御業は、すべて神様の一方的な恵みに他なりません。私たちの業は何一つありません。あなたは、救われた恵みを感謝しているでしょうか。日々神様のあわれみを受け、守られ、導かれているのを覚えているでしょうか。(参考/エペソ2:8,Tコリント15:10)



4 恵みも奇跡も過ぎてしまえば、意識しなくなります。自分の努力でりっぱに歩んで来たかのように、自信過剰になります。解放された恵みを忘れ、救い出されたことを当然と思い始めた出エジプトの民は、荒野での困難の中で、どのようになりましたか。(民数記14:29〜30)
・5節/

5 解放された恵みを忘れ、救い出されたことを当然と思い、荒野での困難の中で、彼らの罪性はあらわとなりました。約束の地に入ることができたのは、カレブとヨシュアの二人と第二世代以後の民だけでした。その理由が、列挙されています。四つの理由を挙げてみましょう。(参考/民数11:4~6, 出エジプト32:4, 民数25:1, 民数21:5~6民数16:41)
・6〜9節/


6 恵みや感謝を忘れてしまうと、試みや患難に出会った時、揺さぶられることになります。誘惑に陥り、罪を犯すことになります。あなたも、そのような体験がありますか。



7 神様への恵みと感謝を忘れて、不平不満をぶちまけ、むさぼります。罪と空しさから解放されたのに、自分たちの救い主に拠り頼まず、様々な偶像に心寄せることは、霊的な姦淫です。人への姦淫もそこから生じます。神を信頼せず、神を試みるのは虚しいことです。物事が自分の思うように行かない時、患難に出会った時に、神を信頼できずに呟きます。このことから、あなたが思うことは何ですか。



8 このような神の民の歴史を引用されているのは、何のためですか。そのために、どのようにするように言われていますか。
・11〜12節/


9 滅びから救い出され、罪の奴隷から解放されたその恵みの後で、患難や問題に出会ったら、私たちはどう受け止めるのでしょう。救いの恵みを忘れて、自分の力、自分の思いで向かうなら、過去の過ちを繰り返すでしょう。私たちは、弱くても、不安であっても、ただイエス様の十字架に救われた恵みを忘れず、神様の愛とあわれみに信頼し続けることです。主に救われた者への約束の御言葉は何ですか。
・13節/
・マタイ7:11/

「命の実を刈り取ろう」

 私たちは,人生途上様々な困難、耐えられそうもない苦しみに出会います。様々な誘惑と試みを受けます。でも、私たちが出会う家庭や夫婦の問題、学校や勉強での試練、仕事や職場での苦難、そうしたことは、クリスチャンの先輩たちが出会い、経験して来たことです。先人たちは、信仰のゆえに耐え、脱出の道を見出し、救い出されました。私たちが問題や苦しみでもがく時、イエス様による救いの恵みを思い出し、神様を信頼することです。そうすれば、「主は耐えられないほどの試練に会わせない」という約束を握ることができます。心に浮かんで来た感謝や決心は何ですか。ヘブル2:17〜18。

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