小グループで聖書を学ぶ

23 何をするにも神の栄光のために(Tコリント10:14〜33)

「心の門を開いて」

 私たちは、この偶像の世界の中でクリスチャンとしてどのように生きるかということが、大きな課題の一つです。今朝の箇所には、とてもシンプルな規準が与えられています。偶像にささげた肉の例によって、他者への配慮と自分自身を省みることが教えられています。

「御言葉の種を蒔こう」

1 以前、偶像にささげた肉だから、と心配する人が問題になっていました。しかし、偶像にささげた肉なんてなんでもない、とまったく気にしなすぎる人も問題です。極端な話し、コリントの聖徒たちの中には、偶像の宮で偶像礼拝者とささげた肉を一緒に食べる者もいたようです。何と勧めていますか。その表現に注意しましょう。
・14〜15節/


2 クリスチャンは自由にされている、偶像なんて関係ないと言っていたのに、なぜ問題になるの、と聞いた人々は疑問に思うことでしょう。ですから、「偶像礼拝をするな」と言うのではなく、「偶像を避けなさい」と言っているのです。「逃げなさい」とも訳されます。これは、かなり危険だからです。なぜですか。
・17〜21節/


3 イエス様の尊い聖餐に与っている者が、偶像の宮で飲食に参加することができるでしょううか。偶像にささげる行為は、悪霊と交わることになってしまいますよ、と警告しています。人を躓かせ、誤解を与えるだけでなく、自分自身の信仰を危険にさらすことになります。ですから、私たちを罪に誘う恐れのあることには、私は強いからとか私は大丈夫だとか言っていないで、とにかく避けなさい、関わらないようにしなさい、と言うのです。自分にとって避けるようにと示されることは何ですか。(参考/Tコリント6:18, エペソ5:4,箴言2:18,Uテモテ3:2〜5)



4 クリスチャンの行動原理は、信仰的には、まず罪に誘う危険なことを「避ける」ことでした。では、積極的なクリスチャンの行動原理として、どんなことをするように勧められていますか。
・23〜24節/

5 世の人々は、私たちの言動を見て判断し、クリスチャンの姿に影響を受けます。その人たちは神様のあわれみを受け、主の救いの対象者です。ですから、私たちが自分の生き方を省み、「他の人の益となるため」という原理によって、人々と関係して行かなければなりません。当時の具体例をみて、感じることは何ですか。
・23〜29節/


6 自分のルールは大事にすべきですが、人々に適用する場合には、その人のたましいのために、自分のルールはそっと後ろに置くのです。「自分自身の前に他者を置く」ということです。24節の「他人」ということばは、「私とは違っている人、私とは一致しそうもない人」という意味です。そういう意味で「他の人の益となるため」という原理を実践して行くには、どんなことが必要だと思われますか。



7 自分とは違う人々のために自分自身の言動を制限したり、その人に配慮したりすることは、霊的な力を必要とし、主の助けなしにはできないことです。そのために、もっと根源的な、強力な原則を勧めています。どんなことですか。
・31〜33節/


8 言うなれば、「すべての配慮の上に神の栄光を置く」ということです。もし主に栄光を置かないで、神ではないものを中心に置くならば、判断を誤り、争いや問題を生じさせるでしょう。肉と我を吐き出して溜飲を下げ、満足したとしても、人に躓きを与え、自ら悪評をまき散らし、神の国を傷つけてしまったことはありませんか。



9 使徒パウロは、「人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、みなの人を喜ばせている」と証ししています。これが、クリスチャンの目的であり、クリスチャン人生の情熱です。自分にはできない、自分は不十分だと自分を責めるのではなくて、パウロは特別だ、私はしなくてもいいだろうと逃げるのではなく、主は私たちにどう反応するよう望まれていると思いますか。


「命の実を刈り取ろう」

 私たちは、イエス様の十字架によって救われているので、主に助けていただけます。「自分の利益を求めないで、他人の利益を心がける」「何をするにも、ただ神の栄光を現すためにする」という二つの単純なクリスチャン生活の原理は、偶像の文化の中、人間関係の難しさの中で生きる私たちにとって、確かなナビゲーションとなり、証しの生活となります。あなたの生活において、どのようなことに適用されますか。ガラテヤ2:20。

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