小グループで聖書を学ぶ

25 聖餐の恵み(Tコリント11:17〜34)

「心の門を開いて」

 私たちは、交わりのめに一緒に食事をします。初代教会においても、食事の交わりが重要でした。愛餐と呼ばれていました。しかし、食事は人の罪が出る場でもあります。ですから、交わり、コイノニアにとっても、聖餐は大事なものだと教えています。

「御言葉の種を蒔こう」

1 コリント教会では、聖徒たちがそれぞれ食べるものを持ち寄って、愛餐と呼ばれる食事の交わりを持っていました。それは、愛餐というキリストにあって食べ物を分かち合う美しい絵のような交わりになるはずでした。ところが、実際はどうでしたか。
・17〜22節


2 これは、どうやらそれまでの偶像礼拝や社会慣習の影響と思われます。異邦人としての習慣をそのまま持ち込んでしまった結果でした。私たちも、まさに異邦人世界に住んでいます。友達同士でも、親族の集まりでも、会社の交わりでも、食事の場がもたれます。そこでは、必ずしも良い交わりとはならず、しばしば噂話や争いの場となり、罪や醜態をさらす機会となってしまいます。そのような場で痛みや悲しみを感じたり、自分自身が肉の思いに駆られたりすることがありませんでしたか。



3 コリント教会では、信仰を霊的に理解していないために、信仰が成熟せず、肉の思いで争い、配慮ができず、主にある交わりが裂かれていました。裕福な人は自分勝手に豊かな食事をしていたのですが、奴隷階級のような人々は持って来るものもなくお腹を空かしていたのです。そこで、主にある交わりとなり、その交わりが破られないために、思い出すべきことがあります。何でしょうか
・23〜26節/


4 私たちにとって、集まりの混乱や分裂も、福音に立ち返ることが大切でした。聖餐で食べる「パン」と飲む「ぶどうジュース」は、何をあらわしていたのですか。
・マタイ26:26〜28/
・エペソ1:7/

5 イエス様は、十字架の犠牲が「わたしの血による新しい契約」だと言われました。この意味は何でしょう。普通の契約は双方から条件が提供されるのですが、人と神様との契約も同じでしょうか。また、この契約は人の条件によって変更されてしまうものですか。
・ローマ6:22〜23/
・ガラテヤ3:17, ヨハネ6:37,44/
・エペソ2:8〜9/

6 イエス・キリストは、私たちの滅びの身代わりとなり、罪の赦しを与えるために十字架にかかり、血を流されました。神様からの一方的な恵みの契約です。イエス・キリストは、復活によって、信じる者に永遠の命を与える約束をくださいました。私の救いのために主が尊い犠牲になられたということは、私たちの人生が無意味なものではないということです。イエス様の犠牲による自分の救いを覚える時、自分の新しい命にある人生をどう思いますか。(参考/イザヤ43:4, ヨハネ1:12)



7 パンがイエス様のからだを象徴します。「パンを裂き」という表現は、一緒に食事をするということを意味しています。聖餐式でイエス様のからだであるパンを裂くというのは、教会の何をあらわしているシンボルですか。
・エペソ1:23/
・ヨハネ17:21〜23

8 本当に救われたことは感謝です。でも、私たちは恵みを忘れ易い者です。ですから、聖餐式のパンとブドウジュースを通して、イエス様の十字架による犠牲を覚えるために、聖餐式を繰り返し受けるのです。もし、主の晩餐を軽く考えて、備えることなしに受けるなら、どうなってしまいますか。そうならないために、何をする必要がありますか。
・27〜29節/


9 聖餐とは、自分は赦された罪人であり、病んだ心を癒された者であることを覚え続けるものです。自分が何をしているか、どんな心かを省みます。罪を知って、悔い改めます。赦された者として人を赦します。主の愛に気付くことは、互いの愛が欠けていたことに気付かせます。聖餐の意味を覚え、自分を吟味して聖餐を受けた後に交わりをするなら、私たちの交わりはどうなりますか。(参考/コロサイ3:13, Tペテロ2:24,マタイ18:20)


「命の実を刈り取ろう」

 この愛餐から生まれたキリスト教の伝統に、ポトラック(potluck)というものがあります。ポトラックとは、有り合わせの食事という意味ですが、それぞれが持ち寄って、簡単に豊かな食事をして、交わりを持つことです。私たちも、行事の時には、持ち寄って楽しい食事をしています。聖餐の恵みを覚えて、主にある交わりをして行きたいと願います。教会だけでなく、家庭の食事や友人、学校職場の人々との食事が、主を証しする愛餐の交わりとなりますように。26節,使徒2:46〜27。今日の学びを通して、特に示されたこと、導きを受けたことを分かち合いましょう。

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