小グループで聖書を学ぶ

27 すべての部分が互いに必要(Tコリント12:12〜31)

「心の門を開いて」

 世界を見ても、社会を見ても、家庭や職場、学校を見ても、人々の集まりには争いや不和があり、混乱と分裂があります。それは、人の罪のためです。当時のコリント教会でも、不和や争いが生じており、そのために書かれているのが、この書であり、この箇所です。すべての人の集まりにおいて有益な示唆と恵みを与えてくれます。

「御言葉の種を蒔こう」

1 当時のコリントは、ローマ帝国中から様々な背景を持った人々が集まっていました。まったく違う様々な人々が救われて、コリント教会に集まっており、混乱と争いが起こっていました。ここでは、コリント教会における働き、奉仕の違いについて、人々が理解し易いように譬えで教えられています。どんな譬えですか。その特徴は何ですか。
・12〜13節/


2 教会がキリストの一つからだであることを教えています。働きや奉仕についても、多様性の背後には、本質的な統一性があることを示しています。イエス様の福音によって新しくされて、御霊の原理で考え、行動してはじめて、私たちの集まりが、キリストのからだとして機能して行くことになります。しかし、違うことばかりが目に付いて、一つとされている基本を忘れてしまうと、どんなことが起こりやすいですか。からだの譬えは、どんなことをあらわしていますか。
・14〜16節/


3 「私は〜ではないから、からだに属さない」と言うのは、自分を卑下し、からだの他の器官を羨むことをあらわしているようです。そうなってしまうことに痛みを覚えます。私は何もできない、あの人のようにはできない、と人はしばしば言います。そうして「私はいなくてもいい」とするならば、その集まりは、一部の欠けた体となるでしょう。このことから何か思うことがありますか。



4 なぜ、違う器官が一つのからだの中にあるのでしょうか。からだの譬えから、人の集まりにおいても、違う働きのために、違う賜物が与えられている理由はどういうことだと言えますか。
・17〜20節/

5 どんなに優れた器官だとしても、その器官だけで体は機能しません。「私はあなたを必要としない」と言うのは、高慢、自惚れの姿です。しばしば人の集まりの中で、これと同じような言葉を聞いたり、態度を見る時があります。それは、とんでもない傲慢であり、悲しい姿です。どんな状況で見たり、聞いたりしたことがありますか。
・21節/


6 「私は〜ではないから、からだに属さない」という自己卑下も、「私はあなたを必要としない」と言う高慢も、思い違いをしています。何と言っていますか。からだの譬えはどういうことを示していますか。
・2〜24節/


7 救われた者は主にあって尊い存在です。弱くても豊かに用いらます。神様の前にはイエス様の犠牲で救われた同じ尊い存在であり、それぞれの集まりの中で、必要な存在であり、働きを担っています。互いが、互いにとって必要な存在です。互いの足りない所を補い合い、互いの失敗や弱さをカバーし、互いに拠り頼む存在とされています。「互いに必要だ」ということが強調されています。あなたは、自分や周りの人をどう思っていますか。



8 教会にも、色々な職務があり、働きがあります。奉仕や働きは、賜物の学びの実践ということで大切です。コリント教会では、職務の違いについて、高慢になったり、妬んだり、文句を言っていました。教会や家庭、職場や学校等において、職務や働きの違いのために、高慢になったり、妬んだりすることがありませんでしたか。
・27〜30節/


9 この箇所でからだに譬えて教えている原理は、それぞれ違うけれど主にあって一つであること、相互に必要としていること、さらにもう一つ大事なことが教えられています。そこに、教会の偉大な本質があります。それは、どういうことですか。
・25〜26節/

「命の実を刈り取ろう」

 兄弟姉妹が、この聖書の教えのように互いに仕え合い、互いに労わり合うのを見るのは、喜びであり、慰めを与えられます。私たちは、自分や家族が人生の危機に出会ったら、兄弟姉妹に祈ってもらい、励ましを受けているでしょうか。私たちは、教会において互いの喜びと悲しみを分かち合って行くために、キリストのからだなる教会に召されています。私たちは、一つのキリストのからだの一つ一つの器官としての原理で生きて行く時、教会が建てられて行き、世にあって豊かに用いられます。エペソ4:16。特に思いを新にし、実践しようとすることは何ですか。

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