小グループで聖書を学ぶ

28 愛がなければ(Tコリント13:1〜13)

「心の門を開いて」

 「愛」というと、人々は情緒的なロマンチックな感情を思い、バレンタインデーやキューピッドの矢を連想するようです。しかし、悲しいことに、現実の社会や人間関係は、反対に混乱と争いの中にあります。人々は、愛がどういうものか分かりません。愛とは何でしょう。私たちも、学んで、体験して行く必要があります。

「御言葉の種を蒔こう」

1 古代のギリシャ語には、愛について違った言葉がいくつかあります。まず「エロス」という愛は、利己的な感情であり、激しい肉的な願いです。歌や詩によく使われます。他の愛と区別するなら、「奪う愛」と言った方がよいでしょう。次に、聖書にも出て来る「フィリア」、親子や兄弟、友人の親愛に用いられています。「相互的な愛」ということです。そして、「アガペー」は、至高の愛と言われ、一方的な、犠牲的な愛です。聖書には多く使われています。アガペーの愛は、とりわけどんなことの表現に使われていますか。
・ヨハネ3:16/
・Tヨハネ4:10/
・ローマ5:8/

2 イエス様の救いに関することを経験した弟子たちが、世間とは違う愛としてアガペーを使うようになったと思われます。イエス・キリストを送ってくださった神様の御業の現われを愛としたのです。受けるに値しない者のために主が犠牲になられたことを愛と受け止めました。もし愛がなければ、教会での賜物はどのようになると言っていますか。
・1〜3節/


3 愛が御言葉を伝える動機であり、愛が信仰を動かしている力であり、また、愛がその業を行わせているのなら、それらはみな最高に価値あるものになります。しかし、もし愛の動機がなければ、それらは騒音でしかないし、自己満足の興奮でしかないし、何の価値もないというのです。自分を誇ったり、自分を見せるためにも、すごい業はできるからです。コリント教会では、一部の人々が互いに争って、見せるために懸命でした。自分自身のしていることについて、振り返ってみましょう。どうですか。



4 「愛がなければ」というその愛の性質はどんなものですか。列挙されています。よく分からないものがあれば、互いに質問し合ってみましょう。
・4〜7節/

5 愛は「人をねたみません」と言っていますが、他の人の幸いや成功を見て不愉快になったり、不機嫌になったりしませんか。愛は「自慢せず、高慢になりません」と言われても、つい高慢になることはありませんか。肉の思いに囚われると、妬みと高慢を行き来することになります。人の幸いが喜べない、自分を誇らないと満足しない、という姿は、主の愛が失われているためです。思い当たることがあれば、分かち合いましょう。



6 愛は「怒らず」と言いますが、怒りは、独善的であり、人に対する罪の応答となることがあります。「人のした悪を思わず」というのは、人にされた悪を記録しないということです。心に記録すれば、後で必ず問題にします。された悪を記録せず、恨みを抱かなくなれば、どんなにか私たちの心が健康になることでしょう。私たちの罪の性質は、必然的にここにひっかかるので怒り、されたことを忘れないので心が痛んでしまいます。ずっとひっかかっていて、しばしばそれを見ている記録はありませんか。



7 「がまんする」というのは、人のした悪を覆ってしまうことです。「信じる」というのは、愛によって疑い深くしないということです。人の失敗や足りなさを受け止めます。主の愛のゆえに「期待する」ので、今の環境に左右されず、外観がどうであろうと望みを失いません。そのように導かれたことは、どんなことでしたか。
・Tペテロ4:8/


8 このアガペーの愛は、世のものと比べると顕著な特徴があります。最後の部分は、愛の勝利について記しています。どんな特徴ですか。
・8,12,13節/


9 愛は決して絶えることがなく、神様の愛は、決して終わりません。その愛を受けた者は、人を、イエス様の血によって贖われた人として見ます。愛は、悲しみ、嘆き、苦しむ人と共感させます。愛は、料理して食事をさせ、病気の者を見舞い、電話をかけ、励ましの便りを送るなど、具体的なことをさせます。愛は、必要とする人のために祈り、苦境にある人を助け、人の利益を図るようにします。神の愛を受けた私たちは、どうすることを勧められていますか。兄弟姉妹を愛する最もよい方法は、どうすることですか。
・Tヨハネ4:7,11〜12/

「命の実を刈り取ろう」

私たちの隣人への愛は、イエス様の十字架を見る時、自分の罪のためにイエス様が死なれたことを理解する時のみ、生じて来ます。イエス様の十字架の犠牲による救いという愛を受けたあなたは、どうように生きていきますか。学びで示されたことは何ですか。

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