小グループで聖書を学ぶ

5 宣教とは御霊と御力の現れ(Tコリント2:1〜5)

「心の門を開いて」

 クリスチャンというだけで、証しとなっている存在ですが、宣教、証しというと、思いはあっても、臆してしまうところがあります。難しいコリントでパウロはどのように宣教をしたのでしょうか。それを学ぶことで、私たちへの示唆を与えられたいと思います。

「御言葉の種を蒔こう」

1 この箇所は、パウロらしくない、パウロにもこういう面があったのかと思うほど人間的な姿を見せています。コリントにいた時のパウロは、どのようだったのですか。
・3節/


2 私たちが知っているパウロは、生活の厳しさや命の危険さえも問題にしない人です。牢屋に入れられても恐れることがありませんでした。そのような人が、どうしてコリントでは、弱く、恐れののいていたのでしょうか。その背景となることに目を向けましょう。パウロがコリントに来る前、ギリシャ哲学の中心地アテネにいました。そこで、どんな体験をしましたか。そして、コリントでも、弱く、恐れののくようになる原因と思われることは、どんなことでしたか。
・使徒17:17〜18,32〜33/
・使徒18:4〜6/

3 哲学も学んでいたパウロは、哲学の中心地アテネで、哲学的用語を用いて、哲学的に論じようと努めましたが、失敗しました。コリントに来てもまた、同じようにしようとしてうまく行かず、弱く、おののくようになったようです。使徒パウロは、自分がなぜ弱くなっていたのか、後で気付くようになります。どこまでも自分の内面の問題だと気付かされます。外敵要因はきっかけに過ぎません。私たち自身は、どんなことで弱さを覚え、恐れるのでしょうか。弱さや恐れを覚えるようになった原因は何でしょうか。



4 コリントでの宣教は、アテネよりさらに論争や反発が多くて、パウロは再び心が弱くなり、恐れ、もう他の所に行きたいと思いました。しかし、そんなパウロの気持ちを変え、コリントに留まらせた出来事がありました。どんなことですか。
・使徒18:9〜11/

5 パウロはある夜、幻の中で主の励ましを聞いて、再び勇気を与えられ、伝道するようになりました。私たちも、いろいろなことで弱さを覚え、不安になる時があります。この励ましが私たちにも語られているなら、あなたはどんな心境になりますか。



6 アテネで失敗し、コリントでも同じことを繰り返し、そのために弱く、恐れおののく経験をしたパウロは、雄弁や用語や言い回しに気を取られては、真理の伝達がだめになってしまうことを知りました。幻を通して主の励ましを受けた後、どう宣教しようかというパウロの迷いはなくなりました。パウロは、コリント宣教において、どんな決心にたどり着いたのですか。
・2節/


7 1節の「宣べ伝える」(カタンゲロー)も、4節の「宣教」(ケリュグマ)も、告知者として宣べる、宣言するという意味の言葉です。パウロは、主から遣わされた権威をもって「十字架につけられたイエス様が救い主だ」と宣言したのです。私たちもまた、イエス様の十字架を信じて、罪赦されて、天国への命を与えられ、イエス様に遣わされた者です。どのような思いで証ししていこうと思いますか。(参考/Tペテロ2:9)



8 ただイエス様の十字架を宣教するのだと決心したパウロは、どのような宣教の仕方をしないと言っていますか。
・1,4節/


9 パウロは、人の知恵、人のことばに精通していましたが、それに頼って失敗しました。しかし、パウロが、イエス様の十字架が自分の救いであり、いのちであり、十字架の福音が伝わることだけが私の願いだという思いになった時、彼の心に勇気がわき、聖霊が強く働くようになり、聞く人々の心が開かれるのをパウロは体験しました。その結果、何と証ししていますか。パウロの経験と証しを知って、あなたの思ったことは何ですか。
・5節/
・ピリピ3:4〜7/

「命の実を刈り取ろう」

 私たちの霊的状態はどうでしょう。十字架が抜けていませんでしたか。心の中心にイエス様がおられるでしょうか。プライドが偶像となっていませんか。私たちの信仰が単純にイエス様の十字架中心となる時、イエス様の十字架の救いに信頼する時、弱さや恐れを抱く私たちも、勇気を与えられ、聖霊が働くようになります。きょうの学びから、どんな導きと励ましを受け、それぞれのところに遣わされて行きますか。使徒18:9〜10/

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