小グループで聖書を学ぶ

5 あなたがたは知らないのですか(Tコリント3:16〜23)

「心の門を開いて」

 自分はどういう者か。気高い自己認識を持つ者は、それに相応しくなって行きますが、肉と欲に流されるなら、そのようになります。確かに元の自分は肉と欲に支配されていましたが、今はイエス様に救われています。私たちはどういう者だという自己認識が必要なのでしょうか。

「御言葉の種を蒔こう」

1 コリントの聖徒たちが、クリスチャンになり、御言葉を学んでいるにもかかわらず、肉の思いに囚われ、妬みや争いの中にあったことは、残念なことです。どんな比喩を用いて手紙を読む者たちの目を覚まさせようとしていますか。
・16節/


2 「神殿、宮」と言う時、二つのギリシャ語があります。ヒエロンは建物と境内を含む宮全体のことであり、ナオスは神殿の聖域、至聖所を示しています。ここで使われているのは、ナオスの方です。至聖所、神様のおられる所、つまり神様の臨在に目を向けさせているのです。「神の御霊が宿っている」ことを、妬みや争いの中にいるコリントの聖徒たちに強調しています。御霊が内住している存在であることを彼ら自身知っていたのですか。



3 パウロは、「あなたがたは、〜を知らないのですか」と強く言い、あなたがた自身は素晴らしい存在なのですよ、と叫んでいます。私たちが、「私は神の宮であり、御霊が内住している者だ」という存在感を持ち、その素晴らしさを発揮して行くなら、それが私たち一人一人の生活に大きな影響を与えることでしょう。私たちは、自分自身をどう捉えて、どう見ているのでしょうか。(参考/Tペテロ2:9)



4 自分たちが「神の宮であり、御霊があなたがたに宿っている」存在であることを知らないかまったく忘れているなら、どうなる危険があるでしょうか。自分の肉の思いで妬みや争い、噂話をすると、どんな状態になると言われていますか。
・17節/


5 「こわす」も「滅ぼす」も、ともに「汚す」という意味の言葉が使われています。ですから、肉の思いで、妬み、争い、噂話をするなら、教会をこわし、自分という聖霊の宮を「けがす、損なう」ということになるのです。神様の罰のように見えますが、自分が自分を破壊することになるということです。自分が気に入らないからと、怒り、あざけり、噂話をし、争います。そんなことをして、自分で自分を傷つけ、自分で自分を破壊し、自分で自分を貶めて、いいのですか、と言っています。思うところを分かち合いましょう。



6 哲学の盛んだったコリントで、人々は知恵を誇っていました。しかし、実態は、自分が自分を汚し、自分が自分を破壊する愚かなことをしていたのです。ですから、何と言っていますか。
・18節/


7 妬みや争いの元となった世の知恵は、自分は知者だ、あの人より知恵や能力があるなどという思いです。しかし、自分は知恵があると自負する人が、他の人をさげすみ、あざけり、妬み、怒り、悪口を言い、噂話をし、争う姿を神様は、何と言われていますか。それに対して、どうすると言われていますか。(参考箇所/ヨブ5:13, 詩篇94:11)
・19~20節/


8 人は、有名人や偉い人と知り合いだ、関係があると誇りたがります。コリントの人たちが、勝手にパウロ党だ、アポロ党だと作り、そこに属することで威張り、争っていました。しかし、そんなこと誇る必要はないと言っています。何と言っていますか。なぜ、そう言えるのですか。(参考/エペソ1:11,14)
・21〜22節
・23節/

9 パウロやアポロだけでなく、「すべては、あなたがたのもの」だと言っています。イエス様の十字架は私の罪と滅びの身代わりだ、と信じて救われているなら、滅びる命でなく、天国へ続く命となり、御国の相続者となっています。神様は、創造者であり、すべてを司られるお方だからです。私たちに関しても、家庭も職場も宣教の地もすべて私のもの、神様の祝福と御力の働くところとなっているというのです。どう思いますか。


「命の実を刈り取ろう」

 きょう私たちの心にも、「あなたがたは聖霊の宮であることを知らないのですか」という声が響きました。自分という存在が、イエス様の十字架という「大きな代価を払って買い取られた」ことを忘れていないでしょうか。私たちが聖霊の宮であるという驚くべき事実が、再び私たちのうちに生き生きと発見されますように願います。あなたが、この真理を知って、意識して家庭や社会での生活に適用すると、どのようになりますか。Tコリント6:19〜20。

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