小グループで聖書を学ぶ

10 キリストに仕える管理者(Tコリント4:1〜5)

「心の門を開いて」
 
 私たちは、どのように生きて、働くのでしょうか。今日の箇所では、主の働き人がどのような者であり、クリスチャンはどのように働く者であるのか、管理者への譬えで説明しています。そして、コリント教会での問題について、回復の鍵を示しています。

「御言葉の種を蒔こう」

1 コリントの聖徒たちは、自分の肉のプライドで、パウロ派だ、アポロ派だと争っていましたが、パウロやアポロという主の働き人はみなどういう者だと言っていますか。私たち聖徒すべてが、それぞれの人生の立場において、どのように働き、どう生きるのか教えていますか。
・1節/


2 「しもべ」という原語を直訳すれば、「底で櫓を漕ぐ者」となります。ローマ時代、ガレー船の船倉で多くの人々が櫓を漕いで、船を走らせていました。号令一下、右へ左へと、速くしたり遅くしたり、他の漕ぎ手と合わせて漕ぎました。漕ぐ人たちは、どこへ進んでいるか分からなくても、懸命に漕ぎました。この譬えから、「キリストのしもべ」とは、何に従って、どのように行動する者だと教えていますか。(参考/ルカ7:8, Tペテロ4:10)



3 私たちは、「神の奥義の管理者」と言われています。「管理者」と訳されていることばは、オイコノモスです。家の管理者ということです。主人から家のこと全般を委ねられた管理者のようだというのです。私たちには、福音が与えられ、御言葉の真理が託されています。主に仕えるこのような管理者には、何が必要ですか。
・2節/
・マタイ25:14〜15,20〜21/

4 私たちが人々の中で働いて、生きる時、問題になるのが人の評価です。職場や家庭、社会ではもちろん、教会においても、人にどう見られているかが気になります。このことが、コリント教会での妬みや争いの原因になっていたようです。ここで繰り返し出て来る表現に注目しましょう。
・3〜4節前半/


5 人を裁くという肉の思いが、一部の聖徒たちを妬みや争いへ引いて行きました。私たちも人を裁き、人の評価を気にしているのではないでしょうか。私たちがここから脱却するために、三つのさばきについて教えられています。まず、一つは、「あなたがたによる判定、人間による判決」です。助言や忠告は、人に益をもたらしますが、「人のさばき」は、どんなことが考えられますか。(参考/ヤコブ4:11〜12)



6 人のさばきは、「非常に小さなこと」だと言っています。自分の肉の思いを満足させたい人々は、パウロを裁いていましたが、キリスト中心、十字架の福音に仕えるパウロは、そのようなものに煩わされませんでした。人にどう見られているか、人の評価が気になって仕方がないという人がいます。人の顔色を見てがっかりしたり、プライドが傷ついたと怒ったりします。あなたは、どうですか。



7 人からさばかれるだけでなく、人は、「自分をさばく」こともします。それは、それでよい面もあります。悔い改め、成長することができます。しかし、自己評価は、罪と肉の思いでずいぶんと曇らされてしまいます。独善的になったり、自己否定にもなったりします。自尊心を失い、自分をまっすぐ見つめることができなくなった時、人生は耐えがたいものになります。あなたは、自分をそのように見ることはないですか。



8 パウロは、「自分で自分をさばくことさえしません」と言っていますが、「やましいことがないとしても、それで無罪とされるのではない」と証ししています。では、なぜ私たちは、罪無しと認められたのですか。その結果、どう生きる者とされているのですか。
・ローマ4:25/
・エペソ2:8〜10/

9 私たちは他人の判定からも、自分のさばきからも自由にされています。私たちをさばく方は誰だと告白していますか。なぜ、人のさばきや自分の判断に揺さぶられてはならないというのでしょう。主の忠実な管理者として働きたい、救いの恵みに応えて生きたいと願う者には、どんな報いがあると約束されていますか。
・4〜5節/

「命の実を刈り取ろう」

 神様が、すべてのことをご存知です。私の主であるイエス様が、私をどう見ておられるのか、どう判断されているのか、これが健全な信仰者の姿です。主の忠実な管理者には、「神から称賛」が届きます。不当な裁きを受けている人々にとって、大きな慰めであり、希望です。主の管理者として、家庭、社会、教会で、どのように仕え、働き、生きていきますか。マタイ25:21。

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