小グループで聖書を学ぶ

12 私にならう者となってください(Tコリント4:14〜21)

「心の門を開いて」
 
 今日の箇所には、本当に羨ましく、あまりにも気高く感じてしまう一言があります。互いに妬み、争い、使徒を裁く高慢なコリントの人々に対して持っているパウロの思い、姿勢が、それです。信仰者として人に仕えて、人を助け、人を育てる私たちに何が必要なのか、ここから大切なものを学びます。

「御言葉の種を蒔こう」

1 王さまと見世物の譬えは、パウロにそのような酷いことをした高慢な人々を責めているように感じるかもしれません。しかし、そうではありません。どういう気持ちで、どうするためだと言っていますか。
・14節/


2 親ならば、子どもをはずかしめようとは思いません。パウロは、愛する子どもを訓戒するような気持ちで書いているというのです。いわゆる「信仰の親」として、この手紙を書いているというのです。なぜ、高慢なコリントの人々を「愛する私の子ども」と言っているのですか。(参考/Tペテロ1:23)
・15節/


3 彼らの救いのために、また、信仰の成長のために労苦したパウロにとっては、自分は彼らの「生みの親」だというのです。クリスチャンは、誰かの救いのために、誰かの信仰生活の導きのために労苦し、用いられます。あなたは、どんな人のために「産みの苦しみ」をしていますか。その労苦の報いは、どうなのでしょうか。
・ガラテヤ4:19/
・Tテサロニケ2:19〜20/

4 子どもが成長して行くためには、当然必要なことがあります。教育と共に、見習う対象、ならうべき模範や手本です。パウロが、信仰上の生みの親として、コリントの人々にこうなってほしいと切に願うならば、そのモデルを示さなければなりません。最も効果的なモデルは、何でしょうか。それについて、パウロは驚くべきことを言っていますが、それを読んでどう思いますか。
・16節/


5 だれがこのように言えるのでしょうか。あなたは言えませんか。考えてみてください。子どもは、見習えと言われなくても、無意識に親にならっているものです。親の嫌だと思うところを、見習ってしまうことも多いのです。親は、こうなってほしいという切なる願いを持って、子どもに本を読ませたり、映像を見せたりしますが、最も効果的なモデルは、親自身なのです。目標にもなり、反面教師ともなります。あなたは、このことを意識して生きて来ましたか。



6 信仰の親も同じです。「私にならう者となってください」と願うのは、当然なことです。パウロは、彼らが自分にならう者となるために、同労者テモテを派遣すると言っていますが、テモテをコリント教会へ派遣することで、どんなことを期待していますか。
・17節/
・Tペテロ3:16/

7 「キリスト・イエスにある生き方を思い起こさせてくれる」と言うのは、高慢なコリントの人々が、大切な御言葉の適用、真実な御霊の原理による生き方を忘れていたからです。それを思い出すことを願ったのです。私たちにとって必要なことは、イエス様の救いによって新しく生れたことを覚え、イエス様と共に生きる熱い思いです。聖餐式の時だけではなく、日々、生活の中で、人々との関わりの中で思い出すべきです。パウロが「私にならう者となってください」と言うのは、どんなことを思い出すべきですか。
・Tコリント11:1/


8 「あなたがたは王さまで、私たちは見世物の捕虜だ、あなたがたは賢く強いが、私たちは愚かで弱い者だ」と言っていたパウロが、コリント教会の「思い上がっている人たち」に対して何と言っていますか。どうしてこのような強さを見せているのでしょう。高慢なコリントの聖徒たちとパウロの強さと確信の拠り所を対照してみましょう。
・18〜19,21節/
・20節/

9 コリントの思いあがっている人々は、論争好きで論争のことばを自慢しました。それが、人々を争わせ、教会を混乱させていました。しかし、パウロは、イエス様の十字架が自分を救う力を体験し、御言葉が人々を造り変えて行く力を見ており、自分が伝える福音が人をキリストにある生活に導く力を確信していました。あなたの強さと確信はどこにありますか。(参考/Uコリント12:9〜10,コロサイ1:11)


「命の実を刈り取ろう」

 「私にならう者となってください」と言うパウロの証しを学んで、私たちの証しの生活が、人々を救いに導き、その生き方や人生にどれほど大きな影響を与えると思いましたか。この箇所の学びを通して、どのような生き方をして行くのか、心に覚えた導きがあれば、分かち合いましょう。Tテサロニケ1:5〜6。

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