小グループで聖書を学ぶ

11 辱められる時にも祝福し(Tコリント4:6〜13)

「心の門を開いて」

 ローマ帝国のカイザルは、「人は自分が見たいものしか見ようとしない」と言ったそうです。捏造記事も、読者が喜びそうな内容にしようとしてできるそうです。人は、相手に自分の肉の思いに合うような言動を求めるのです。そのために、私たちは葛藤し、翻弄されます。使徒パウロの証しに学びます。

「御言葉の種を蒔こう」

1 人が向き合わなければならないのは、人の裁きではなくて、神の裁きであるということを前回学びました。そのことを思えば、私たちは、どのようにならなければならないのでしょうか。パウロは、妬み、争うコリントの人たちに人に何と言っていますか。
・6節/


2 「私たちの例によって」とは、パウロたちが謙遜の見本として自分たちを見せたということです。「書かれていることを越えない」とは、高慢にならないで、御言葉のまま従いなさい、ということです。コリントの一部の人々は、高慢になって、御言葉に聞き従わず、思い通りにならないパウロたちを裁き、互いに争いました。まず、私たち自身が高慢になっていないか、パウロの二つの質問について自分にあてはめて考え、答えてみましょう。(参考/Tテモテ6:4)
・7節/


3 私たちは、高慢な人から裁きや批判にさらされることがあり、苦しんだり、葛藤したりします。そのために、高慢な人々の態度が、どのように表現されているか、確認しましょう。なぜ、このように譬えられているのですか。
・8節/


4 自分をすぐれた者と思い、自分の力ですべてを得ていると思い込んでいる人、自己中心になって、相手に自分の肉の思いに合うような言動を要求する人がいます。気にいらなければ、人を批判し、裁き、怒りをぶつけます。そのような人を「王さま」と言っています。自分自身、王さまのようになっていないでしょうか。また、周りに王さまのような人がいて難儀していることはありませんか。


5 互いに妬み争い、パウロを悪く言う王さまのような人々に対して、パウロは仕え続けました。パウロたち仕える者の譬えの描写は、読む者に心の痛みさえ覚えさせるものです。描写されていることをイメージして、どう思いますか。
・9節/


6 これらの描写は、ローマ帝国の凱旋将軍の行列をイメージしているようです。凱旋パレードの最後に捕虜たちが見世物として連行されます。彼らは、しばしば競技場に連れて行かれて、野獣と戦い、死ぬ定めになっていました。パウロは、自分たちをこの捕虜に譬えていますが、「神が、…引き出され」と言っています。このことから、どういうことが考えられますか。



7 王さまに弁明し、理解を求めることは難しいものです。パウロにできることは、肉の思いや自我に死んで、謙遜に仕え続けることでした。私たちの肉のプライドが、王様のような人に対して怒りを抱かせ、自分を痛めつけ、憂うつな心にさせます。見世物になりきれば、無念さもなくなります。私たちは、イエス様を信じた時、どうなったのですか。
・ガラテヤ2:20/


8 互いに妬み、争い、人を裁いていた高慢な人々と、謙遜に労苦して人に仕え、真実に福音に生きた人々の姿を比べてみましょう。私たちも、不当な扱いを受け、謂れのない批判を浴び、労苦しても評価されないことがあるでしょう。でも、使徒たちはどうしたのですか。迫害を受けた聖徒たちはどうしたのでしょうか。
・10〜11節/
・12〜13節

9 「辱められるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、罵られる時には、慰めのことばをかけた」というのです。驚くべき反応です。パウロたちは、なぜそのようにできたのでしょう。何にならったのでしょうか。
・ルカ23:34/
・Tペテロ2:23〜24

「命の実を刈り取ろう」

 イエス様は、十字架上で、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」祈られました。私たちに悪態をつき、私たちの心を傷つける人々もそうなのだと思えば、あわれんで受け止め、辱められても祝福し、罵られても慰めることができます。イエス様は、罵られても罵り返さない模範を残されました。私たちの罪と苦しみを負って、十字架にかかられました。それによって私たちの傷も癒してくださいました。今日の学びを通して、どのようにイエス様の御足跡に従おうと導かれましたか。

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