小グループで聖書を学ぶ

13 肉が滅ぼされ、霊が生かされる(Tコリント5:1〜8)

「心の門を開いて」

 現代社会は、混乱の時代、喪失の時代と言われます。とりわけ倫理観の喪失が顕著です。人々は、今こそ大切なものは何か、自分が寄って立つべき揺るぎないものは何か、と探し求めています。そのような世に生きる私たちは、自分自身がしっかり福音に立って、聖書的価値観を持って生きて、それを証しして行くことが大事です。

「御言葉の種を蒔こう」

1 使徒パウロは、妬み、争うコリント教会の人々に対して、一つの事件を通して、自らを省みるようにさせています。妬みと争いの中にあったコリント教会の人々も、色々な事に熱心であり、多くのことを知っていました。しかし、彼らの罪に対する反応に問題がありました。「父の妻」とは、直訳では「父の女」です。そのような女性と関係していた人がいたというスキャンダルについて、コリント教会の人々はどう考えていたのですか。
・2節/


2 コリント教会の人々が深刻には考えなかったことが問題です。なぜでしょう。コリントという都市自体、道徳的に堕落しており、「コリント人」という言葉自体、不品行な人という表現に使われていたくらいです。商業都市、軍港都市として繁栄しており、大勢の人々が集まって来て、人の肉の思いを満足させるものがそろっていました。そのような文化の中に暮らしていると、どうなる可能性がありますか。



3 コリントという罪と肉の欲にあふれた社会の中に生きていた彼らは、その影響を受け、その文化に染まっていたために、平気で互いに妬み、争っていたのです。不品行にも鈍感になっていました。周りの人々がそうしていれば、気付かなくなるものです。私たちも、気にもせず悪い噂話をしたり、怒って悪態をついてしまうことがないでしょうか。知らずに悪影響を受けてしまうことが、ありませんか。



4 手紙を書いた使徒パウロは、コンリトにいませんが、心はコリント教会にありました。どのように言っていますか。どうしてほしいという願いで厳しく言っているのでしょうか。
・3〜5節/
・マタイ18:3,Uペテロ3:9/

5 罪を犯したらだめだというのではなく、罪は罪として認めて、悔い改めるようにということです。危険なのは、社会では普通じゃないか、誰でもしているじゃないか、皆言っているじゃないかと言って、自分もしてしまうことです。罪のまま放置したら、もっと酷いことになるからです。悔い改めが大切です。イエス様の救いを信じた時、私たちはどう変えられたのですか。以前と以後では、価値観はどのように変化していますか。
・ローマ6:6〜8/


6 私たちが気をつけなければならないことは、簡単に他の人を悪く言ったり、批判したりして、満足することです。自分がそのような罪に陥る可能性がない天使のような存在ではないのです。私たち自身も、そのような罪に陥る危険があります。そうだとすれば、罪に陥った人に、どのようにすることができますか。



7 パウロがここでこのような人の例をあげているのは、なぜでしょうか。私たち一人一人があまりにも罪に弱い存在だからです。コリントの人々は、妬みや争いという罪に翻弄されていますが、罪に鈍感になっていると、罪の影響をさらに受けて、もっと罪を犯し、悪くなってしまいます。それを何に譬えて、説明していますか。
・6節
・ガラテヤ5:9/

8 出エジプトの時、小羊の血を門に塗った家の民はさばきを過越され、救われました。その騒ぎに乗じて脱出したので、パン種を入れないで焼いたパンを食べました。それは、エジプトでの罪の生活方式、価値観を清算するということでした。民の身代わりに過越しのいけにえとして小羊が屠られたのです。「過越しの小羊」とは、何を意味していますか。(参考/出エジプト12:20〜23)
・7〜8節/
・Tペテロ1:18〜19/

9 彼らの古いパン種は、「悪意と不正のパン種」でした。悪意をもって相手を論破し、不正をして利益を得ることも多かったのでしょう。新しい祭りをするように命じています。イエス様を信じるということは、どのような人となって生きることですか。
・ガラテヤ2:20/

「命の実を刈り取ろう」

 イエス様の十字架が自分の罪と滅びの身代わりだと信じるなら、古い自分は死んで、新しい命に生まれ変わるのです。イエス様が自分のうちに生きておられます。イエス様の尊い犠牲によって救われているのですから、「いつも祭りをしているように」喜びと感謝をして生きましょう。Uコリント5:17。学びを通して示されたことを分かち合いましょう。

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