小グループで聖書を学ぶ

15 以前はそのようなものでしたが (Tコリント6:1〜11)

「心の門を開いて」

 人がいれば争いは起きるものです。コリント教会の問題は、まさに妬みと争いでした。そして、私たちも様々な争いに巻き込まれるものです。では、どうしたら争いに巻き込まれないか、どう争いを受け止め、対処するのか、ここから学びます。

「御言葉の種を蒔こう」

1 互いに争っていたコリントの人たちは、自分の主張を繰り返すばかりで相手のことを聞こうとしなかったのでしょうか。人は、自分が正しいと思うならば、相手は間違っているとするものです。その結果、どのようなことが起こりましたか。
・1,4節/


2 世の裁判官について、「正しくない人たち、無視される人に訴え出る」と言っているのは、法廷の権威を否定したり、世の裁判官が悪い人だと言っているわけではありません。世の法廷がどんなに権威あるところでも、人のするところだと言っているのです。彼らが、教会がどんなところであるかまったく考えることをせず、欲心に陥って、傷を与えていたからです。教会とはどんな所だと言っていますか。本当に正しく裁かれるのは、どなたですか。
・2〜3節/
・ヤコブ4:12/

3 教会は世にあって、神様の教会です。教会は、神の子、神の民とされた者の集まりです。聖徒たちは、世の終わりの時には、主と共に審判席につくという存在です。聖徒たちは、人を正しく裁くことのできるのは神様だけだと知っています。では、聖徒は、問題が生じた時、人を恨み、人を訴えるのではなく、どうすべきなのでしょうか。
・7節/
・Tペテロ2:23/

4 これは、クリスチャンが無条件に損害を受け、騙されて生きろ、という意味ではありません。クリスチャンは、正しいか間違っているかは明らかにしなければなりませんが、必ず勝とうとしてはいけません。相手が間違っていると分かっても、相手がどうしても理解しないなら、自分の主張を押し通そうとせず、神様に委ねなさいというのです。あなたは、争いが起こった時、勝たなければという執着心が起きませんか、どんな時に、プライドが許さないとか、沽券に関わるという思いが生じますか。

5 勝たなければと思う時、執着心が起こり、心の中で憎しみや怒りが支配するようになり、罪の言動に及びます。聖霊の満たしがなくなり、喜びが奪われるようになります。だからと言って、我慢と忍耐では、続きません。これは、無理をしてではありません。信仰によって、「むしろ害を甘んじて受け、むしろ罵りを甘んじて受ける」ように、ということです。クリスチャンの崇高な姿です。クリスチャンは、なぜそうできるのですか。
・Tペテロ2:23〜24/


6 聖書は、いろいろな問題を取り上げながら、いつも私たちに自分自身の姿を省みさせ、信仰の原点に立ち返らせます。聖徒にも罪の火種は残っているのです。人は、どのような恐ろしい罪に陥る可能性がありますか。コリントの人々には、どのような罪が挙げられていますか。
・8〜10節/


7 罪の生活、罪の生き方を続けたままで天国へ行けるのでしょうか。占いをしながら天国へ入ろうとするのでしょうか。人をそしりながらイエス様に会えるのでしょうか。肉のプライドで怒っている姿をイエス様はご覧になられないのでしょうか。互いに訴え合うなど、とてもできなくなります。天国へ行くには、どうすべきですか。
・マタイ18:3/
・Uペテロ3:9/

8 教会では、神の臨在の中で人を悔い改めに導いてくれます。御言葉は、自分の罪の姿に気付かせ、御言葉の原理に戻してくれます。御霊で聖められます。今日の結論は、私たちがどんな存在であるという所に導いてくれますか。
・11節/


9 「あなたがたの中のある人たちは」と言っていますが、「ある人たち」以外のコリントの人々は、その中に入っていないのでしょうか。コリントの人たちも、私たちも、救われる以前はどのような者だったが、今はどうなっていると言っていますか。
・テトス3:3〜5/
・エペソ2:3〜5/

「命の実を刈り取ろう」

 「私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした」しかし、今は、イエス様の十字架によって、救われ、罪赦され、新しい命を与えられました。この救いの原点を忘れてはなりません。この救いの原点を思うと、どんな生き方をしなければならないのか。学びを通して導かれたことは何ですか。分かち合いましょう。

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