小グループで聖書を学ぶ

16 すべてのことが許されていますが(Tコリント6:12〜20)

「心の門を開いて」

 何事でも、物事にはその背景というものがあります。コリント教会の問題も、コリントという町の背景がありました。それは、不品行の蔓延していた都会であり、哲学者の間違った自由の主張でした。しかし、それとの対比は、私たちに信仰生活の素晴らしい原理を教えています。

「御言葉の種を蒔こう」

1 当時のギリシャ哲学には、精神を尊ぶだけで、肉体はどうでもよい、肉体の好きなようなさせろ、大事なのは精神だ、という考えがありました。そのために、コリント教会にも、精神だけが重要だ、肉体は好きなようにする、と不品行に無頓着な人がいたようです。クリスチャンの自由を哲学者の言う自由と同じように考えました。そこで、使徒パウロは、何を教えていますか。
・12節/


2 世のいう自由は、これと随分違います。たとえば、感性を理性のくびきから解放し、強制力からも解放されようとしたエピクロス派は、「すべてのことが許されている。抑制したり禁止したりするな。自分自身を表明せよ」と説きました。それをいいことに、コリントの聖徒たちは、精神さえしっかりしていれば酒に酔ってもいい、精神さえしっかりしていれば不品行をしてもいい、と考えたのです。このような考えをどう思いますか。



3 私たちクリスチャンは、なぜ自由なのでしょうか。何から自由にされているというのですか。勝ち取られた自由をどのようにしなければなりませんか。
・ローマ8:21
・ガラテヤ5:1

4 クリスチャンは、人が持っているどんなことも許されています。クリスチャンの生活は、不自由なものではありません。すべてが自由です。「しかし、すべてが益になるわけではありません」と言います。自由だから何でも勝手気ままにするとなれば、たがが外れ、人は暴走します。クリスチャンの自由には、どんな特性がありますか。
・Tコリント9:19,Tペテロ2:16


5 自分に許されていることでも、周りの人には役に立たず、害を及ぼすこともあるから、すべてのことが益となるわけではないのです。人は、自由なはずなのに、自由気ままに生きて行くならば、罪の奴隷になってしまいます。この自由の原理の適用として、実例があげられています。どんなことですか。
・13節


6 確かに、食物の消化のためには腹が必要であり、肉体の維持のためには、食物が必要です。けれども、重要なことは、体で何をするかということです。私たちは、体の状態がどうであるか関心が大きいですが、その体で何をするか、どのようにその体を用いるかということについて、あなたはどう考えていますか。



7 私たちが救われて、新しい命が与えられたことには意味があります。あまりにも自己中心的になって、壊れていたからだが信仰によって生かされて、他の人の幸いと救いのために用いられるようになります。主は、私たちが自分の体を御国のために用いることを願っておられます。その体を不品行や放蕩に用いるなら、どうなると言っていますか。
・14〜15,18節/


8 不品行をしてしまったら、単純に肉体の罪だけで終わるのではなく、そのような生活を愛し、心がそれに囚われてしまい、精神に影響を及ぼすようになります。クリスチャンとなっても、一瞬に罪の習慣や価値観がなくなるわけではありません。ですから、信じて救われた者の体には、どんな変化が起こっているかを知り、意識して生きて行くことが必要です。救われた時、私たちの内にどんな変化が起こったのでしょうか。
・19〜20節/


9 私たちのからだが聖霊の住む宮だということは、消極的には、この体を罪を犯すことに用いてはいけない、積極的には、私たちのからだを神様の喜ばれる目的のために、用いなさい、ということです。神様が新しい命にしてくださり、聖霊の宮としてくださった私たちのこの大切な体を積極的に人々のために用いなければなりません。体をどのように主に喜ばれる働きに用いていますか。


「命の実を刈り取ろう」

 ルターは、「キリスト者の自由」という本の冒頭で、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない」と「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」という命題を掲げています。私たちのからだは、イエス様の尊い犠牲、主の血潮という代価をもって買い取られたものです。私たちのものではありません。どのようにからだを用いて行きますか。導かれたこと分かち合いましょう

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