小グループで聖書を学ぶ

18 召されたときのままで(Tコリント7:17〜24)

「心の門を開いて」

 人は、自分の立場や環境が変わり、もっと豊かな生活をすることを求めます。人は現実をどのように考えるのでしょうか。何事も運命だといって諦めたり、これは本当ではないと現実逃避を思い描いたりします。私たちは、どう受け止めるのでしょうか。

「御言葉の種を蒔こう」

1 現代社会は、世界中で格差が広がっていると言われています。人々は世の不公平に不満を言いながら、自分は世でもっと良い生活をしたいという欲求を持っています。そのような思いを持っていたコリントの聖徒たちに、何と教えていますか。
・17節/


2 「召されたときのままの状態で歩むべき」だというのなら、何も努力する必要がないのでしょうか。確かに、いたずらに自分の欲と力でどうにかしようともがいて、疲れ果てたり、罪を犯すこともあります。苦しい生活のままでいいと言うのでしょうか。神様の御旨はどこにあるのでしょうか。(参考/マタイ6:8,711)



3 人生を生き抜くのは大変ですが、神様が私の状況を良く知っておられ導いてくださる、という信仰が大切です。その状態を外的に変えることに集中することより、まずその中で主中心に生きることをするのです。そうして行くうちに、その状態に耐えることができるようになり、主が導く道を見出していくようになります。自分の立場や状況を認めることができなくて恨んだり、現実から逃避しようとしたことがありませんか。



4 使徒パウロが、「おのおの信じたときままの状態で歩むべきだ」とアドバイスしたのは、当時コリントに具体的な問題が起こっていたからです。その問題にどんな勧めをしていますか。
・18〜19節/
・ガラテヤ5:6, 6:15/

5 当時、クリスチャンになった人々には、ユダヤ人が多くいました。聖徒たちの中には、ユダヤ人の割礼が信仰の敬虔のしるしであるかのように思う、律法に熱心な人々がいました。また、しるしや律法を要求する人々もいました。ある人々は、自分の力で律法を守ろうとし、それが信仰だと思っていました。人の評価や自分の満足という偶像が中心になっている人々もいます。そのような律法主義や偶像に囚われていることはないでしょうか。



6 私たちは、懸命に信仰に生きようとして、葛藤を覚え、平安がなく、不平不満を抱き、倦み疲れてしまう時があります。その時、イエス様と個人的に出会い、自分のための十字架の犠牲に涙し、赦しと救いの恵みを体験するチャンスです。外見や行いを変えようとするよりも、本当に福音中心の信仰で生きることを求めるのです。自己満足や評価という偶像から解放され、救われていることの喜びや感謝を覚えたり、福音を新たに信じたことがあれば、分かち合いましょう。



7 コリント教会には、奴隷階級の人々が多くいたようです。当然、奴隷の願うことは、自由になることです。クリスチャンになったら、奴隷状態から抜け出せるだろうと期待し、変化を願いました。私たちも、クリスチャンになったら、自分が望むような状況や環境に変わるのではないかと期待したでしょう。それに対して、どんなことが勧められていますか。
・20〜22節/


8 現実から逃避しようとしたり、私が生きるのはこんな世界ではないと、現実を否定し、認めようとしない人々がいます。それでは、現実は変わらず、しっかり生きることはできません。ところが、クリスチャンは、奴隷の身分であったとしても、主にあって心は自由なのです。そのよう思いで生きるならば、実際の生活も全然違って来ます。私たちは、なぜそのような者になれるのですか。
・23節/


9 まず、現実を認め、受け止めることから、前進と変化が始まります。置かれた立場や環境において最善を尽くし、生きることが大切です。私たちが生まれた家庭も、私たちが生きて来た環境も、変えることはできません。しかし、今現実の中でしっかり信仰で生きて行くなら、現実は変化して行きます。現実は、主の祝福と恵みがあらわれる所となります。そのような体験がありますか。


「命の実を刈り取ろう」

  私たちは、イエス様の十字架の犠牲という「代価を払って買い取られた」存在です。本当に重要なことばです。買い取られたのですから、今私たちは主によって用いられるイエス様の僕です。世からは自由です。肝心なのは、何をしていても、その立場、環境でイエス様に仕えて生きるということです。大事なのは、救いによって新しく創造されたということです。ガラテヤ6:15。今日の学びで発見したこと、導きや変えられた思いを分かち合いましょう。

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