小グループで聖書を学ぶ

10.旅人のような私たち(Tペテロ2:11〜12)

「心の門を開いて」

 クリスチャンは、イエス様を信じた時から、世において阻害され、のけ者にされ、見知らぬ人のように扱われることがあります。イエス様を信じる前には、人々と何も変わるところがなく、同じような考えで一緒になっていたのに、自分に何か問題や足りない所でもあるのだろうかと思ってしまいます。なぜなのでしょう。

「御言葉の種を蒔こう」

1 聖書は、世の中で生きるクリスチャンに対して、「どういう者である」と言っていますか。一般的には、そういう人はどんな扱いを受けますか。
・11節/


2 昔旅をして田舎の村を通ると、よそ者がいるとじろじろ見られたり、偏屈な村人から冷たくされたりすることがありました。聖書が、世の中で生きている私たちを旅人や寄留者だと言う時、それにはどんな意味がありますか。(参考/ヘブル11:9,13,出エジプト2:22)



3 では、どうして、イエス様を信じた人々を、世の人々は旅人や寄留者扱いにするのでしょうか。イエス様を信じた人々が変わるのですか。世の人々がどう感じるようになると思いますか。



4  イエス様を信じた時から、私たちのたましいが罪と空しさから解放され、新しい生きるようになって、尊い存在になります。その姿は、世の人々には都合が悪く、気に入らないのです。ですから、イエス様を信じた者たちが、旅人や寄留者として世で生きて行く時、もっとも注意しなければならないことがあります。何でしょう。
・11節後半/


5 「肉の欲」は、飲めば飲むほど渇く塩水のようだと言われます。「たましいに戦いをいどむ」と言うように、サタンが働くのですから、私たちの力でできることではありません。では、どうすればよいと思いますか。(参考/ヤコブ1:21)



6 私たちが旅人や寄留者として生きて行くのに、「肉の欲を遠ざける」が消極的な姿とすれば、積極的には私たちはどうしなければならないと勧めていますか。
・12節/



7 村人が見知らぬよそ者を悪く言うように、しばしば世の人々が私たちを「悪人呼ばわり」することがあると言っています。なぜ、御言葉に従って誠実に生きようとするクリスチャンを悪人だと非難するのでしょうか。あなたに、似たような経験がありますか。



8 私たちは、悪人呼ばわりされても、敵対したり離れたりしないで、しっかり信仰に生きるのです。人々を助け、仕えて、主の愛を伝えたいのです。「立派な」とは、「他の人の目にとまる魅力的な美しさ」という意味です。私たちの生き様は、魅力的でしょうか。どうすればよいですか。(参考/Uコリント2:14~15)



9 イエス様を信じた人が、世の人々の中にあって、りっぱにふるまっているなら、どうなると約束していますか。
・12節後半/
・マタイ5:16/

「命の実を刈り取ろう」

 「行いを見て」とは、ただ見るのでなく、「観察する」ことです。世の人々は、クリスチャンを観察しています。そこに真実はあるのか、そこに救いはあるのか、と観察しています。キリストの香りあふれるクリスチャンの姿を見て、やがて人々の心が変えられ、救いへ導かれ、ともに神様の栄光をほめたたえるようになる時が来ると約束しています。私たちは、そのために、世に旅人や寄留者として置かれているのです。私たちの生き様が人々の救いにつながっているのです。この箇所の学んで、自分の信仰生活について示されたこと、信仰の人生において導きを受けたことは何ですか。

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