小グループで聖書を学ぶ

12.イエス様のことを思って(Tペテロ2:18〜25)

「心の門を開いて」

 当時ローマ社会にいたクリスチャンは、神様を礼拝している時に、恵みを覚え、霊的な自由を感じることができていました。しかし、生活に戻って行くと、奴隷という現実が待っていました。人は、自分に対する期待値と現実の間に大きな差があると、現実に適応することがとても困難になります。私たちが、世で抑圧を受けたり、どん底に落ちたりする時、どのようするのでしょうか。

「御言葉の種を蒔こう」

1 イエス様を信じた者は、神様の子どもとされたという喜びと自尊心があります。ところが、実際には、社会では部下や誰かに仕える立場であり、命令に服さなければならない境遇であることが多いです。上に立つ者が悪口をあびせ、辛くあたって来ることもあります。そのような人々に対して、どうするように言っていますか。
・18節/


2 私たちにとって、何よりも辛いのは、人から苦しめられ、悩まされることです。勤勉な者が職場で横暴な上司に悩まされ、嫁が家でひどい姑や悪い夫に苦しめられることがあります。私たちの上に立つ人が、気難しくひねくれた人であったり、横暴な人であったりもするでしょう。会うたびに言葉で痛めつけられ、精神的な苦しみを受けることもあるでしょう。そのような経験がありますか。主の取り扱いを願い、分かち合ってみましょう。



3 世は私たちの信仰の訓練場として備えられているようです。多くの神の民が、苦闘しながら偉大な信仰に導かれています。私たち自身、イエス様を信じたとは言え、肉の性格は多く残っています。それが砕かれて、新しくされる機会として、「横暴な主人」が用いられるのかもしれません。ダビデの例を考えてみましょう。彼の仕えた人はどんな人でしたか。どのように対しましたか。結果、彼はどうなりましたか。
・Tサムエル23:23, 24:10/
・詩篇56:13~57:1/

4 私たちも、世で生きて行く中で、不当な苦しみを受けることがあります。その時、私たちは、悔しく、やりきれない思いに陥るでしょう。ダビデのように私たちの信仰も揺さぶられ、信仰の危機に出会うこともあります。このような時、どうするように勧められていますか。
・19~20節/


5 「神の前に」と言うように、ただ単に横暴な上司に対してと思わずに、神様の前でしているようにと思うということです。「神様に喜ばれる」と訳された「カリス」は普通「恵み」と訳される言葉です。不当な取り扱いを受けていながら耐えられることが「恵み」であり、神の恵みを受けた者に相応しいということです。どう思いますか。下記の箇所も参照して考えてみましょう。(下記の箇所では、カリスは「良い」と訳されています)
・ルカ6:32〜35/


6 何よりも大切なこととして、不当な苦しみを受けた時、何を覚えなさいと言っていますか。どうすることを勧めていますか。
・21〜23節。


7 イエス様は、何の理由もなしに、世で苦しめられたり、ののしられたりしました。私たちが人からののしられ、苦しめられる時、イエス様も同じ苦しみを受けられたと思うなら、どんな思いになりますか。



8 私たちが横暴な主人に従い、人々から苦しみやののしりを受けても耐えられるようになるのには、理由があります。それは、なんですか。
・24〜25節/
・イザヤ53:4〜6/

9 イエス様が私たちのすべてをその身に負って十字架で苦しまれ、死んでくださいました。イエス様が、私のために苦しめられ、ののしられ、悲しまれ、十字架にかかられたのです。これを知って、人から苦しめられ、ののしられた私たちの心の痛みは、どうなりますか。


「命の実を刈り取ろう」

 「牧者であり監督者である方の元に帰った」とは、以前は羊のようにさまよい、滅びに向かっていた私たちが、イエス様に出会って救われて、根本的なたましいの平安を得ていることを言っています。私たちが苦難の中で耐え忍ぶなら、明らかにそれを見ている人がいて、それがとても美しく、素晴しく見えるのです。彼らは、苦難を受ける聖徒たちを通して、十字架にかかられたイエス様を知るようになり、救いに導かれるようになります。世でののしりや苦しみを経験しているあなたは、御言葉からどんな導きを受けましたか。

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