小グループで聖書を学ぶ

14.幸いな日を過ごしたいならば(Tペテロ3:8〜12)

「心の門を開いて」

 人は誰でも幸せを探し求めています。ところが、心傷ついて、自分で不幸だと思っている人々もいます。この箇所は、苦難に会っている聖徒たちに対して、どうすれば幸福に生きることができるのか、なぜ幸いになれないのかについて教えています。人間関係における生活原理について教えている箇所です。

「御言葉の種を蒔こう」

1 10節前半に「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は」と言われています。人生を幸いに生きることを願っているのに、幸いを覚えることができず、不幸だと思う人が多くいます。私たちは、イエス様の十字架を信じた時に、罪の赦しと永遠のいのちをいただきました。罪の奴隷から解放され新しい人生を生きることができるようにされています。にもかかわらず、人生の幸いを覚えることができないのは、どんな理由が考えられますか。(参考/Tコリント3:3,ヤコブ3:14〜16)
・10節前半/


2 人の心の中には肉の思いがあり、その肉の思いに揺さぶられ、ほんろうされます。とりわけ問題なのは、私たちに敵対し、悪く言う人々がいて、そのような人々の言動にひっかかってしまうことが多いことです。そして、辛い思いや心の痛みが生じ、憎しみや怒りにかられ、争うようになるのです。そのようなことがありますか。



3 人間関係の葛藤や痛みで幸いを覚えることができず、心揺さぶられる人々に、繰り返し、強調して言われていることは何ですか。
・9節/


4 強調されていることは、「悪や侮辱で報いず」ということです。人が幸いになれないのは、人の悪意や攻撃に対する自分の対応が問題となるからです。「報いる」というのは、「仕返し、報復、リベンジ」、つまり、人の悪や侮辱に対する報復や仕返しが問題だというのです。悪く言われたり、ひどい扱いを受けた時、仕返しや報復をしてしまったことがありますか。それをして、どんな気持ちになりました。

5 「仕返しするな」というだけではありません。何と、「かえって祝福を与えなさい」というのです。「仕返ししない」どころか、「祝福しなさい」といっています。そんなこと無理なのでしょうか。しかし、聖書は、無理な不可能なことを命じたりしません。どうしたらできるようになるのか、なぜできるようになるのか、その基があります。9節では、その基が何だと言っていますか。



6 私たちは「祝福を受け継ぐために」救われました。悪をなす者を祝福するというのは、救いによって与えられた信仰の財産、人々に受け継いで行く資産だといっています。私たちの力ではなく、自分を救ってくれたイエス様の十字架の力、福音の力がさせてくれるのです。これが、私たちを憎しみや怒り、報復の思いから解放する神様の方法です。侮辱を与えたのに、祝福の「お返し」を受けたら、相手はどう反応すると思いますか。



7 10~12節は、詩篇34篇の引用です。いつの時代でも変わらない神様の命令です。なぜ偉大な救いを受けながら、幸いを享受できないのでしょう。自分に仇なす相手に仕返ししたり、悪口や侮辱を返したりしてしまうからです。報復したい思いが心にあふれるからです。本当に人生を幸いに生きたいと思っていますか。そうであるなら、どうするようにと言っていますか。
・10〜11節/


8 詩篇34篇で、ダビデは、自分を妬み、恨むサウル王から悪く言われ、苦しめられても、自分からサウル王に悪口を言うことも、敵対することもしませんでした。12節は、苦しみと絶望の中で神様に祈り訴えて、守られたダビデの体験から出た表現です。神様はどうしてくださるというのですか。
・12節/

「命の実を刈り取ろう」

 神様の愛の御顔は、今苦しんでいる私たちに、私たちの傷に向けられています。神様は、神様に叫び、訴えている私たちの声に耳を傾けておられます。そして、私たちに悪を行い、苦しめている人を怒っておられます。神様が自分の困難な状態を知っておられる。ここに聖徒たちの慰めがあります。神様は、私たちのすべてをご覧になり、私たちの祈りを聞いておられるのです。これこそ、私たちの幸福ではないでしょうか。「幸いな日々を過ごしたいならば、悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい」という御言葉を学んで、心で思ったこと、導かれたことは、何ですか。

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