小グループで聖書を学ぶ
22 うしろを忘れて前にむかって (T列王記18:1〜46)

「心の門を開いて」

 看護事業に尽したナイチンゲールは、「進歩し続けるのでなければ、後退していることになる」と言いました。前進していると思ったら、後退していた。これは、まさに混乱し停滞している今日の社会にあって、企業ばかりか、個人の思いでもないでしょうか。大きな一歩を踏み出したエリヤは、後退しているような一人の高官と出会います。この出会いを通して大切なことを学びます。

「御言葉の種を蒔こう」

1 ケリテ川での養いとやもめの養いという経験を通して整えられたエリヤは、何もない所で神様の御言葉に信頼するということを学びました。自分には何もないが私を用いる神様にはすべてがあるという確信をもって、アハブ王に会うという新たな一歩を踏み出しました。エリヤは、その時どんな人に出会いますか、その人物紹介を見てみましょう。
・1〜4節/


2 オバデヤは、アハブ王の側用人、国務長官とも言うことができます。彼は偶像を崇拝する人ではなく、主なる神を信じている人です。かつてイゼベル女王が主の預言者を殺害したときに、オバデヤは命をかけて預言者百人を隠して、養うという素晴らしい働きをした人でした。しかし、そのような信仰の活躍は、継続しているのでしょうか。今現在、オバデヤは、どんな立場で働いているのですか。
・3,5〜6節/


3 現在のオバデヤは、アハブ王に仕える者です。過去にどれほどすばらしい働きをしたとしても、残念ながら、その活躍は過去のことです。その信仰の情熱は、今はありません。オバデヤの素晴らしい信仰は、現在停滞していたのです。彼の信仰の停滞は、エリヤとの会話にも見ることができます。二人の対話から窺えることは何ですか。
・7〜9節/


4 オバデヤは、「あなたは私の神、主のしもべエリヤですか」と尋ねるべきでした。誰が本当のオバデヤの主人なのですか。オバデヤが仕えるべきお方は主なる神ではなかったでしょうか。オバデヤは、アハブ王とイゼベル王妃を恐れて、仕えていました。彼の信仰の歩みは停滞しており、前進していなかったのです。 自問してみましょう。果たして、私の主人はだれか、私の所有者はだれか、誰を恐れているのか。どう答えますか。


5 アハブ王に会おうとしていたエリヤは、アハブの高官オバデヤに会ったので、アハブ王にエリヤはここにいると王に伝えるように言いました。ところが、彼は、拒みました。その理由を言っています。なぜそのように考えるのでしょうか。
・9〜12節/


6 神様がこれまでエリヤを隠してくださいましたが、今エリヤは、神様から遣わされ、アハブに会おうとしています。ただ、それを王に伝えるだけなのに、オバデヤは、難しく、複雑に考えているのです。神様が何をされたいかについて考えが及びません。神様の御心に心がまったく向きません。ただ、自分がしたことや、自分の安全だけに考えが集中していたのです。私たちも、神様の御思いやご計画に思いを馳せることなく、ただ自分の考えや自分の計画だけに集中していないでしょうか。



7 拒むだけでなく、オバデヤは、自分が過去にどのように信仰的で、主に仕えたのかを説明しています。子どもの頃から主を恐れており、かつて命をかけてイゼベルから主の預言者百人も救出して保護した、と過去の信仰と活躍を誇っています。これは、彼の心がどこに向いて、どこに心を置いていることを示していますか。
・12〜13節/
・ヨブ記29:2,伝道者7:10/

8 私たちも過去の栄光にしがみついていることがあります。信仰に熱心に歩んだことや信仰の素晴らしい働きをした過去のことを、今の自分の姿であるかのように語るのです。 かつての信仰の熱心が失われ、はじめの愛から離れてしまっている。そういうことはありませんか。
・黙示録2:4/


9 アハブ王に会い、バアル預言者と対決するという大きな一歩を踏み出したエリヤは、主に誓って、必ずアハブに会うと約束します。すると、オバデヤは、何と答えましたか。それは、オバデヤのどんな変化を表していますか。
・15〜16節/

「命の実を刈り取ろう」

 今やオバデヤは、主の御言葉に従って歩む新たな一歩を踏み出しました。それは、オバデヤの信仰による大きな一歩です。16節は、1節につながるものですが、その間の箇所は、オバデヤの姿を通して、私たちにも新たな信仰の一歩を進めさせるためです。エリヤとオバデヤの差は、一歩の差です。一歩踏み出すか、停滞しているかです。オバデヤは、アハブに仕えるうちに、いつのまにか信仰の歩みが停滞していたのです。最後に使徒パウロの証しを参照しましょう。そして、今日の学びで示されたことを分かち合いましょう。
・ピリピ3:12〜15/
(T列王記18:1〜46)

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