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25 貪りから悔い改めへ (T列王記21:1〜29)

「心の門を開いて」
 
 明治の元勲西郷隆盛が、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也」と言っていましたが、そのような人ナボテと強欲なアハブ王の対比から、人の貪りについて学びましょう。

「御言葉の種を蒔こう」

1 はじめの「このことがあって」と言われているのは、アラムとの戦いで勝利しながら、騙されてアラム王を逃がしてしまった事件です。宮殿に帰って来たアハブ王は、騙されたと実感し、後悔したことでしょう。強欲なアラムの王ベン・ハダデが言っていたように、自分も「アラム王のものすべては私のものだ」と言うこともできたのにとアハブ王の貪欲に火がつきました。そんなアハブは、宮殿から何を見て、どんな思いになりましたか。
・1〜2節/


2 アハブ王が宮殿の窓から外を見ると、素晴らしいぶどう畑が目に入りました。どうしても、あのナボテの畑が欲しいという欲求がわいて来たのです。素晴らしい畑は他にも多くあったはずです。王様は良い畑を多く所有していたはずです。私たちも、様々なものを欲しがります。何かを手に入れたいと計画します。その時何を考えなければなりませんか。
・ピリピ4:11〜12/


3 多く人たちは、自分に必要というより、ただ欲しいから好きだからということで手に入れようとします。目に留まった商品にとらわれたり、隣の芝生が気になったりするのです。そのぶどう畑を譲ってくれ、もっと良いぶどう畑をあげる、相当の代価もはらう、と言われたナボテは、どうしましたか。彼の態度はどのようでしたか。
・3節/
・T列王3:11/


4 これは、もっと広いぶどう畑を手に入れるチャンスであり、大金をつかむことができる欲を満足させる絶好の機会でしたが、ナボテは、神様から与えられるもので足ることを知る人でした。先祖のゆずりの地を守り、次の世代に受け継ぐことを使命としていました。命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也です。始末に困ったアハブ王は、どうなりましたか。それはアハブ王のどんな思いをあらわしていますか。
・4節/
・コロサイ3:5/


5 アハブ王の様子を見て尋ねたイゼベルは、アハブ王がナボテにぶどう畑を譲ってくれるように頼んだが、断られたことを聞きました。強権的で悪賢いイゼベルは、ナボテの拒絶を聞いて、どんな悪巧みを企てましたか。それは、どんなことを意味していますか。
・7〜10節/
・ヤコブ1:14〜15/

6 偽証させて、殺させてしまうとは、何と酷い方法でしょうか。まさに欲がはらむと罪を生むこととなりました。どうして、欲心を持つと、ここまで進むのでしょうか。貪りが偶像礼拝だからです。貪りは、十戒の1つでもあり、罪の代表として取上げられています。嫉妬も、人に対する貪りの思いから生じたものであり、買い物の貪りがカード破産に至ります。今や社会は、貪りの氾濫、野放し状態だと言えます。貪りについて、思うことは何ですか。自分の貪りは何だと思いますか。
・出エジプト20:17/
・ローマ7:7/


7 先の引用聖句の続きには、「罪が熟すると死を生みます」(ヤコブ1:15)、「神の怒りが下る」(コロサイ3:6)とあります。ナボテの死後、ぶどう畑を手に入れようとしていたアハブの所に、エリヤが来て、神様の裁きを警告します。アハブ王の反応はどうですか。その結果、神様はどうしてくださいましたか。あなたは、それをどう思いますか。
・17〜19節/
・27〜29節/


8 ついに悔い改めて、赦しを求めて来たアハブに対して、神様は恵みとあわれみを施されます。裁きを猶予してくださいました。ナボテは殺されたのに、なぜこんな悪い王様がちょっと悔い改めただけで赦されるのか、不条理だと人は騒ぎます。聖書は、人の貪りについて何と言っていますか。それは、どのように解決されると教えていますか。
・ローマ7:715/
・ローマ7:24〜25/


9 貪りによって滅びに向かう姿とは正反対の姿をナボテに見ることができます。ナボテは、ぶどう畑を欲しがる貪欲なアハブに対して、「主によってありえないこと」と言って拒絶して、殺されてしまいました。神様から与えられたものを感謝して、それを維持することで満足し、自分の務めとしていました。このナボテの姿は、損な惨めな姿と見えますか。あなたの心にどんな印象が残りますか。引用聖句も参照しましょう。
・ヘブル11:13/


「命の実を刈り取ろう」

 「主によってありえないこと」と言って主の御言葉を取って死んで行ったナボテの姿が、私たちの心に印象的に残ります。地上の目には幸いとは見えないかもしれませんが、御言葉に従うことで得られる平安と希望は計り知れないものであり、幸いな人生だったと言えます。「どちらが自分の欲を満足させるか」ではなくて、「どちらが御言葉に忠実であるか」が私たちの基準です。示されたことや気付かされたことを分かち合いましょう。
(T列王記21:1〜29)2017/2/11

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